『ベースボールマガジン』で連載している谷繁元信氏のコラム「仮面の告白」。ネット裏からの視点を通して、プロ野球の魅力を広く深く伝えている同氏だが、今回は「中日ドラゴンズ」。谷繁氏にとって中日は野球人として最終ゴールであり、栄光も挫折も味わった。ナゴヤ球場時代に限定していえば、横浜の一員として向かい合った。外から見たドラゴンズ、中で感じたドラゴンズをつづった。 ※『ベースボールマガジン』9月号より転載 星野監督と入れ違いで移籍。闘将の残り香がそこに……

筆者が横浜ベイスターズに所属していた1996年の敵将、星野監督
僕が中日ドラゴンズに移籍した2002年、前年まで指揮を執っていた
星野仙一さんが
阪神の監督に就任、ちょうど入れ違いになりました。
星野さんがそこにいなくても、当時のドラゴンズには星野さんの残り香のようなものはやっぱり漂っていました。第1期政権と合わせて通算11年にわたってチームを指揮。ドラゴンズイ
コール星野さんと言っても過言ではないほど絶大な存在感があったわけですから、どこかで影響力というのは残っていたと思います。
星野さんといえば、現役時代からジャイアンツを倒すことをライフワークにしていたような人でした。当時のジャイアンツというのはプロ野球を常に引っ張っていたチームですし常勝チャンピオン。ドラゴンズは歴史上、打倒
巨人の伝統が脈々と受け継がれていると言われます。それは横浜(現
DeNA)から移籍したときにも感じました。ドラゴンズ全体がジャイアンツを意識していた気がします。チームが全体的に負け越していてもジャイアンツに勝ち越していればOKという風潮もあったような気がします。
いまは時代的にジャイアンツとその他
大勢という勢力図ではなくなってきているじゃないですか。それでもやっぱり、いまもジャイアンツなんです。ジャイアンツを倒さないと優勝には近づけないということは言えると思うんですよね。
球団によって色の違いというのはあると思いますが、僕が横浜時代にドラゴンズに対して抱いていた印象は、正直いって明るくはない、と。一方、僕らは明るいという表現が適切かどうかは分かりませんが、にぎやかな雰囲気のチームだったので、それとは全然違う。何か不気味な雰囲気を醸し出していました。具体的にいうと、選手が何か違うものを常に意識しながらプレーしている印象。素の自分を出しきれていないチーム、そこに不気味さを感じていたんです。
こうして書けば皆さんは理解できると思うのですが、結局星野さんというのはドラゴンズにとってカリスマじゃないですか。逆にいえば、チーム内の統率が取れていたということ。それだけの厳しさ、怖さもあったのでしょう。
ドラゴンズと横浜との間には乱闘事件も起こりました。あれは、1994年6月22日、ナゴヤ球場でした。ドラゴンズのピッチャーが現監督の与田(
与田剛)さんで、ブラッグスにデッドボールをぶつけた。ブラッグスからすれば、与田さんが挑発的な態度を取ったということで、マウンドに突進。それより早くセカンドランナーだった
ロバート・ローズが与田さんの背後に飛びかかった。あっという間にマウンドでもみくちゃになりました。一塁を守っていた大豊(
大豊泰昭)さんがブラッグスを止めようとしたのですが、力のある大豊さんがずるずる引きずられるほどブラッグスは制御不能。思わず大豊さんは「オイ、みんななんとかしてくれ」と叫んだのを覚えています。
ナゴヤ球場の思い出は暑さ。クタクタになったイメージ

ナゴヤ球場
さて、ナゴヤ球場の思い出をひとことで言えば、暑さ。名古屋の夏の暑さというのは尋常じゃないですよ。
かつてナゴヤ球場の室内練習場は本球場から少し離れたドラゴンズの寮の横にあったんです。これがまたまた暑いんですよ。当時の僕はまだ若手ですから、名古屋遠征があれば、午前中に室内へ打ち込みに行っていました。汗だくになってから、いったん宿舎に戻ってご飯を食べると、休憩の後でミーティングを経て球場入り。今度はナゴヤ球場で、汗でびしょびしょになるくらい練習、その上で試合に入っていくわけです。消耗度は生半可ではありません。ですから名古屋遠征はクタクタになったイメージしかないですね(苦笑)。まあ若いころは、遠征はどこに行っても同じようなスケジュールでしたから逆にホームゲームのほうが楽なくらいでした。
暑さの影響があったわけではないでしょうが、ナゴヤ球場で僕はあまり打ってないんじゃないですか。ナゴヤ球場最終年となった96年は僕が初めて3割を打った年ですが、ナゴヤ球場での成績を調べてみると34打数7安打、打率.206。どういうヒットを打ったという記憶もほとんどないんです。
ファンの熱気というのはすごかったですね。グラウンドとスタンドの距離が近かったですし、球場自体そんなに大きくない。特徴的なのは声や音が外に拡散していかないで、中へ中へと向かってくるんです。ファンのヤジもよく通りましたし、ライトスタンドの応援もすごく近くに感じました。
広島市民球場も同じように狭かったんですけど、音の反響という点では、ナゴヤ球場のほうが大きかったように思います。球場の周りの住宅環境も関係しているんでしょうね。ナゴヤ球場の近辺はマンションなど建物が比較的多いので、音がグラウンド内に跳ね返ってくるんです。市民球場は外野スタンドの向こう側に何もないので、音が抜けていく。その違いかもしれないですね。
そうした中で名古屋のファンは、どちらかというと一生懸命ドラゴンズを応援していた印象があります。甲子園も阪神の選手を応援するんですけど、敵味方関係なしにヤジが多かった。広島も一緒。ナゴヤ球場では少なくとも僕はヤジを飛ばされた記憶はないですね。物が飛んできた記憶もないですし、ドラゴンズを熱心に応援している感じでしたね。
今季の中日は健闘もチームを強くするのは簡単じゃない
今季のドラゴンズに関しても書きましょう。
開幕前の下馬評では最下位予想がほとんどでしたが、正直すごく頑張っていると思います。
シーズンが始まって、なかなか結果の出ないピッチャーがいながらその穴を埋める存在をうまく使っています。打撃陣も、この2〜3年で徐々に力をつけてきた野手が結果を出せるようになってきました。去年まで一軍経験がほとんどない選手も少しずつ戦力になっているところもあります。
高橋周平も少し時間はかかりましたが、やっと我々が期待していた成績を残せる選手になりつつあります。今年8年目。これだけ時間がかかった原因は、最初に入ってから1〜3年目くらいの“過ごさせ方”が遠回りさせた。なんとかレギュラーに定着させようと思った矢先の2016年にケガ(右手有鈎骨骨折)。そこでまた足踏みしてしまいました。
ケガも治って去年、初めて規定打席に到達。128試合に出場して110安打、11本塁打、打率.254という成績でしたが、ようやく1年間フルでやってくれました。その中で、1年を通して試合に入っていくペースを、体力的な部分も含めて覚えることができたと思うんです。
そういう経験が積み重なった上で今シーズン、7月に入った時点で打率3割2分近く打っていました。1〜2カ月という短いスパンで数字を残せる選手というのはいると思うんですけど、開幕してシーズンの半分以上を消化してこの数字を残せているということ�
蓮⇔呂�ついた証拠だと思うんですよ。
このまま今年1年間通してやると、次の壁というのが出てくるはず。今年の成績を基準にして周りも来年はさらに大きな期待をかけるでしょうから、そういう部分も含めて、来年もまた難しいシーズンになると思います。しかし、来年もう1年頑張れたら、そのままいけると思いますけどね。
壁というのは、上昇気流に乗ったと思っていても、次々と出てくるものなんです。逆にいえば、だからレギュラーを5年以上張った選手というのはすごいんですよ。
いろいろとありますが、今年のドラゴンズは、与田監督が指揮を執ることで、チームが徐々に変わりつつあります。それは選手たちも感じているんじゃないですか。その上で勝てるチームになるには、選手一人ひとりがさらにもうひとランク、レベルを上げていくことが必要。今後はそのステージに入っていきます。
主力選手の年齢を見ると周平、
京田陽太は25歳前後。ほかのレギュラー野手が30歳を超えています。
大島洋平、
平田良介といったクラスが現状の力を維持してくれればそれに越したことはないのですが、彼らの調子が落ちてくるとまた時間がかかる可能性もあります。
正直に書かせてもらうと、7年連続でAクラスに入っていないということは、勝てるだけのチーム力がなかったのです。そこをどう考えるか。やはり選手を変えていかないといけないですし、育てていかないといけない。チームを強くするのは簡単ではないのです。時間がかかります。でも、ファンが期待して待ってくれている以上、その期待にこたえるのがプロだと僕は思います。頑張れ、ドラゴンズ!
写真=BBM ●谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍。2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場、27シーズン連続安打、同本塁打を達成(いずれもNPB歴代最高)。2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。