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プロ野球20世紀の男たち

小林繁&西本聖「巨人を去り、巨人に牙をむいた右腕の不屈」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「江川くんの犠牲で阪神に行くわけじゃない」



 いきなり余談。現在まで脈々と続いている特撮の戦隊シリーズが誕生したのは20世紀のことだった。最近の少年たちについては詳しくないが、筆者も含めた当時の少年たちに人気だったのは、主役のレッドではなく、準主役のブルーだった気がする。ぼんやりと言えば、顔から火が出るような正義を平然と発揮するレッドより、いつもはクールながら時として熱血を見せるブルーに魅了されていたのかもしれない。

 一方、戦隊たちの強敵も魅力的で、1人で正義の5人を寄せ付けない強さを持つヒールながら、ヒーロー以上に紳士的な雰囲気を漂わせたりして、その独特な魅力に少年たちは興奮した。

 当時の少年たちが支持していたのは特撮ヒーローだけではない。いつしか少年たちは将来、どんなに頑張っても平和のために怪獣や宇宙人と戦えないことに気づき、未来の自分をプロ野球の選手たちに投影していく。その視線のド真ん中にあったのは、やはり巨人だろう。テレビでプロ野球の中継が黄金期を迎えた1980年代、“レッド”は江川卓だった気がする。ドラマも“レッド”を中心に展開した。だが、少年たちは、“レッド”だけに魅了されたわけではない。

“江川事件”とも言われる江川の入団で、阪神へ移籍することになったのが小林繁だった。巨人で76年から2年連続で18勝、防御率リーグ2位の好投を見せ、長嶋茂雄監督の初優勝、連覇に貢献、77年には沢村賞にも輝いたサイドスロー。だが、79年に宮崎キャンプへ向かう羽田空港で球団職員に“拉致”され、江川との“交換トレード”で阪神への移籍が告げられると、そのまま深夜に会見を開いた。

「僕は同情されたくありません。江川くんの犠牲で阪神に行くわけじゃない。僕は阪神に請われて行く。むしろ幸せだと思います。僕は今でも巨人が好きだし、阪神も好き。なにより野球が大好きです。マウンドで全力を尽くすことが使命だと思っています」(小林)

 こんなことを、さわやかな笑顔で語られたら、少年たちはたまらない。これは大人も同様だった。入団の経緯もあり、“レッド”になるべき江川が一転“ヒール”となってしまったのも、やむをえないだろう。そしてライバルの阪神でエースとなった小林は、敢然と巨人に牙をむく。巨人戦では無傷の8連勝。最終的には自己最多の22勝で最多勝、2度目の沢村賞も獲得した。

「江川じゃない、西本だ、と」


巨人・西本聖


 江川が“レッド”の地位を獲得した(?)経緯は、江川と原辰徳を紹介した際に触れた。そんな巨人で、スターの江川をライバルに猛然と投げまくったのが西本聖。ドラフト外で75年に巨人へ。当初はアイドル的な人気を誇った定岡正二をライバル視、シュートを駆使して這い上がってきたが、江川の快速球を目にして、

「今度は江川さんに負けたくない、と。『打たれろ、負けろ』と思ったこともある。江川じゃない、西本だ、と思ってもらえるものを作りたかった。ライバルって同じチームの同じポジションにしかいないと思う。同じ条件で戦う中で、どっちが上かを競い合うんですね」(西本)

 シーズンの白星で江川を凌ぐことはできなかったが、「自分の価値観を作れる場所」(西本)という日本シリーズでは29イニング連続無失点などの快投を演じた。81年には日本ハムから2勝、防御率0.50でMVPにも輝いている。

 小林は13勝を挙げながらも83年オフに引退。余力を残しての引退は、やはり87年に13勝で引退した江川とも似ている。一方、それで“燃え尽き症候群”のようになっていた西本は、中日へ放出されたことで闘志をよみがえらせた。移籍1年目の89年は、巨人戦5勝を含む自己最多の20勝で初の最多勝。20勝は81年に江川が挙げたキャリアハイにも並ぶ。その後はオリックスを経て恩師の長嶋監督が復帰した巨人で引退。最後まで江川とは対照的だった。

 最後も余談。当時の空き地には、小林のような変則サイドスローの野球少年も、西本のように左足を天に向かって突き上げるような野球少年も、いっぱいいた。巨人を追われるように去ったのは悲運だったかもしれない。だが、そんな2人は少年たちのヒーローだったのだ。

写真=BBM
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