昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 太田幸司の持つ“運”への期待
今回は『1970年3月23日号』。定価は80円。
1970年には大阪万博があったが、さすが機を見るに敏。真っ先に「万博優勝」という言葉を使い出したのは、近鉄・
三原脩監督だった。
就任2年目の69年は、最後まで阪急と首位攻防戦を繰り広げただけに、3年目にかける思いも強かったようだ。
新人・
太田幸司の獲得も三原の思いを加速させている。ただ、これは太田の力への期待というより、“運”に対してだ。
「チームでも選手でも、やることなすことうまくいくときがある。運命に乗じているときは、そのまま運に乗っていくのがいい。
稀有な人気を持っているのは、太田がほかの選手にない、そういう要素、運を持っているということです。これはプロ野球選手にとって貴重なものです」
球史に残る人気者、太田の獲得を自らの運にもつなげていこうという三原らしい考え方だ(周囲へのアピールも込めてだろうが)。
太田の力量については「稲尾(和久。西鉄)の入ったときよりは上でしょう」と話している。微妙といえば微妙なコメントだ。
中日からトレード要員の通告を受けながら拒否し、結果的には任意引退となった
江藤慎一。以前の回で、
ヤクルト復帰が決まったようだと書いたが、その後、話が暗礁に乗り上げた。
経緯としては
水原茂監督との確執で任意引退となった江藤だが、「このまま引退は球界の損失」と鈴木龍二セ・リーグ会長が説得し、現役復帰を決め、ヤクルトが手を上げた、という流れだった。
ヤクルトの松園オーナーは中日に金銭トレードを申し込み、すっかり獲得したつもりでいた。
3月1日には実際、江藤と松園オーナー、鈴木セ会長の会談が行われ、その後、江藤が記者会見。
「昨年暮れ、引退を決意してから球界からはすっかり足を洗ったつもりでいました。しかし、鈴木龍二会長から何度もカムバックのお勧めがあり、断り切れずにもう一度ユニフォームを着る決心をしました」と語った。
しかし実は、この会見の前、松園オーナーのもとに中日・小山オーナーから意外な返事が来た。それは、
「15勝級の投手との交換でなければ、話に応じられない」だった。
話を聞いた江藤は、
「中日は僕が書いた手記のことで感情的になっているらしい」
とこわばった表情で語った。
ヤクルト側は、「3月になって15勝級の投手を出せるわけがない、なんとか金銭で」と粘り、5日には両オーナーが直接会談をしたが結論は出ず、江藤の復帰への道は再び閉ざされた。
移籍を拒否したことで、任意引退にさせた江藤を他球団で復帰させるのは、すっきりしなかったのだろうか。
消息筋は「江藤が金銭で出ると、水原監督と江藤が不仲で出したことを世間に認めてしまう形になるからではないか。いわば中日のメンツの問題だ」と話していた。
水原と江藤の対立も、やはりメンツの問題。昔は、こじらせ男子がたくさんいた。
では、またあした。
黒い霧が再び動いてきたので、あしたも同じ号からもう1ネタいきます。
<次回に続く>
写真=BBM