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野球殿堂入りした 「ホームランアーチスト」田淵幸一の野球人生とは?

 

1月14日、今年の野球殿堂入りが野球殿堂博物館から発表された。エキスパート部門で選出されたのは田淵幸一氏。通算474本塁打を放ったスラッガーの野球人生とは――。

“振る”のではなく、“押す”打法


阪神時代の田淵幸一氏


 力任せに、ただ遠くへ飛ばすのではなく、田淵幸一のホームランには美しさがあった。空中高く飛び出した打球がゆったりとレフトスタンドに舞い降りる。ホームランの打球が描く放物線を「アーチ」という言葉に置き換えることがあるが、田淵の打球は、滞空時間が長く、まさにその美しいアーチを描くようなホームランが多かった。

 打球の行方を見詰める間、ファンの声援はいったんやみ、そしてスタンドに届いた瞬間、その静寂はその反動で、さらに大きな声援となって球場を沸かせた。狙って打てるホームランではない。田淵が「ホームランアーチスト」と称されたのは、こんな美しいホームランを打つことができたのが理由でプロ野球ファンを魅了した。

 法大時代に長嶋茂雄(立大−巨人)の持つ通算8本塁打を大幅に更新する22本塁打を放ち、一躍ドラフトの超目玉に。山本浩二富田勝とともに「法大三羽ガラス」として注目を集めた。

 熱烈な巨人志望であったが、ドラフトでは阪神が1位指名、迷った末の入団も(68年)、タテジマのユニフォームに身を包んだ後は四番打者として、巨人にとって最大のライバルとして立ちはだかった。

 阪神入団後は、藤井勇コーチやOBの山内一弘から内角球のさばき方を学ぶ。内角球に対して、ポール際で“切れて”ファウルにならない打ち方を見につけた。甲子園球場は好天の日、ライトからレフト方面に向けて浜風といわれる風が吹き、レフトポール際の打球がファウルになることが多いが、その克服のため、田淵本人によると「“振る”のではなく、“押す”打法」を研究、山内からのヒントもあって見につけ、ホームランの量産につなげた。

 巨人戦にはめっぽう強く、特に巨人のV9最後の年(73年)にはシーズン37本塁打のうち、巨人戦だけで16本。そのうち5試合連続本塁打、7打数連続本塁打など巨人を徹底的に苦しめた。

王の連続本塁打王を阻止


 本塁打王といえば、そのころのセ・リーグは王貞治(巨人)が連続して獲得していたが、この年は8月まで本塁打、打点の2部門で王と激しい争いを繰り広げた。王を脅かす存在として田淵が名乗りを挙げたのだ。

 翌年もまた、熾烈な本塁打争いを繰り広げ、巨人投手陣が田淵に対して四球を連発するなどして王のタイトルを守るために懸命に。結果的に王・49本、田淵・45本で、田淵はまたも涙をのむ。

 このころの田淵は「王さんが元気なうちに、タイトルを奪い取りたい」と公言するようになる。自信の表れ、自分自身を鼓舞するためのセリフだった。

 その思いが結実するのが75年だった。王がオープン戦中に肉離れを起こし、出遅れるというツキもあったが、43本塁打を放ち、堂々のタイトル獲得。王の14年連続本塁打王を阻止したのだ。

 通算本塁打は歴代11位にあたる474本だが、本塁打率(打数÷本塁打)は400本塁打以上では王の10.66に次ぐ12.41という高率。そこに田淵の天性のホームランバッターぶりが見て取れる。

 長距離打者にありがちな三振の数も意外なほどに少なく、シーズン100を超える三振を記録したことは一度もない。

西武時代の田淵幸一氏


 70年の頭部死球の影響もあって、太る体質に変化。このころから一塁手として試合に出ることも増えたが、78年オフに就任したブレイザー監督は「守れない選手はいらない」と真弓明信若菜嘉晴らとのトレードで田淵は誕生したばかりの西武へ移籍。深夜の通達、言葉足らずと阪神“お得意”の「ゴタゴタトレード」ですったもんだはあったが、新生・西武の顔、象徴として、黄金時代を築いていく西武の礎となる活躍を見せた。

 移籍当初は成績が上がらなかったが、体を鍛え直し、80年には阪神時代以来、5年ぶりとなる40本塁打を放つなど、西武の中心選手として活躍。82、83年には阪神時代に経験のできなかったリーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献した。その活躍に対しては83年に正力松太郎賞が贈られたほどだ。栄光を手にして84年限りでユニフォームを脱いだ。

 晩年、マンガのキャラクターとして有名になったが、そのマンガほどではなくても性格は天真爛漫。関係した多くの球界人から愛されている。

写真=BBM
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