一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 稲尾和久のSOS
今回は『1970年7月13日号』。定価は80円。
1970年、球界“浄化”の動きの中、永久追放ではなく、出場停止処分選手も相次いでいたが、その選手たちの近況があった。
西鉄の黒い霧では
船田和英は山籠もり、
村上公康は西鉄運輸に就職した。これは処分は11月で解けるが、その間、選手としての給料は出なかったためで、船田は夫人の家に財力があったらしい。
花札賭博の近鉄・
土井正博は当初、二軍の練習にマメに顔を出していたが、徐々に来なくなっていたという。理由はたぶん
三原脩監督の冷遇だ。記者たちのこんな話が新聞に出たときもあった。
「これからは個性のある選手は使えん時代になりましたな。グラウンドで働いてさえくれたら、私生活で少しくらいデタラメは許されるという時代は終わったかもしれんですよ」
西鉄野武士軍団の指揮官とは思えぬ言葉ではある。
また、東映の
森安敏明は多摩川の練習に参加はし、時に一軍の試合の応援に行くこともあったようだが、「優勝なんてしなくてもくよくよするな」と、まるでチームに迷惑をかけた自覚のない言動で、仲間たちもあきれ顔だったらしい。
藤縄、永易に続き、
中日・
小川健太郎も野球の八百長行為について話しだしていたが、小川の登板試合の際、仕切りをした暴力団員が小川だけではなく、相手の大洋の先発・
平松政次にも小川を通し、八百長を頼んだと夕刊紙の取材で発言した。
「こんなにびっくりしたことはないし、怒り心頭になったこともない」
平松は真っ赤な顔で怒る。平山球団社長は記者たちの前で、平松を指さし、
「そんなことをするはずがない。この子の目を見てください」
と言った。
6月22日にはコミッショナーとセ・リーグに平松、森社長らで説明に出かけ「真相を知ってるという小川と直接話させてもらえば分かるはず」と申し出たが、「そんな必要はない。やってないと分かっています」という返答だった。
一方、主力選手が一気に抜けた西鉄では、6月末の移籍期限を前に、
稲尾和久監督が「助けてほしい」と希望選手をリストアップ。オーナー会議、実行委員会でも「大いに協力しましょう」となったのだが、実際には、どの球団も消極的だった。
その中で「すべて無理」と言ったロッテが、
篠原良昭を
ヤクルトに放出したのに怒ったのが、雑誌「酒」の編集長・佐々木久子女史だった。
稲尾監督よ、西鉄ライオンズよ。
こんな口先だけの冷たい球団から選手をもらう必要はなし。今年は負ければいい。どんどん負けてロッテに優勝させてやればいい。
身銭を切ってみている私たちファンは馬鹿でも阿呆でもない。その証拠に、どんなにロッテが強くても東京球場にお客さんは集まらないではないか。
むしろ心あるファンは口惜しさと苦しみとを乗り越えて満身創痍で戦い続ける西鉄に涙ぐむような心からの拍手をおくるものなのです。
チョイと永田さん。
ファン気質とはこんなものだということを、知ってほしいものですね。
また6月17日のオーナー会議で「選抜会議」をこの秋から行うことが発表された。これは支配下選手の5分の1の選手のリストをコミッショナーに提出し、それを各球団がウエーバー方式で指名していくというものだ。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM