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球界の論点

偉大なる野球人・野村克也さんが球界に遺したもの

 

原動力はコンプレックスと反骨心


ヤクルト監督時代の野村さん


 野村克也さんが亡くなった。プロ野球歴代2位の657本塁打を放ち、戦後初の三冠王を獲得した大打者。監督時代にはヤクルトを3度日本一に導くなど名将として球史に名を刻んだ。現役時代から培った確率論が核となる「ID(データ重視)野球」を球界に持ち込み、根付かせた功績は計り知れない。野球は単なる力と力のぶつかり合いではなく、頭脳的な戦い――。自らを高めたいと願う選手たちのバイブルとなった「ノムラの教え」は今後も引き継がれるはずだ。

 野村さんの原動力は、コンプレックスと反骨心にある。南海が所属していたパ・リーグは、稲尾和久(西鉄)、福本豊(阪急)ら身体能力にあふれる強者がいた。野村さんは170センチそこそことプロ野球選手としては小柄。捕手の命である肩も強くない。その弱点を補うため、「首から上(頭)を使って野球をする」ことに腐心した。

 勘だけに頼るのではなく、相手の特性や状況による傾向など情報を細かく収集。「どんなに優れた選手でも弱点はある」と信じ、研ぎすました洞察力を駆使してデータ化し、それを生かすノウハウ作りに励んだ。好んだのは、ここ一番で心理戦にも持ち込むデータを基にした駆け引きだ。マスク越しに打者が気を散らすような話題を話しかける“ささやき戦術”も、野村さんの勝負に懸ける意気込みの表れだった。

 人気を博したセ・リーグ、特に王、長嶋を擁した巨人にも対抗心を燃やした。スーパーヒーローに負けないためには、本質の野球で上回ればいい。監督時代に好んで説いた「弱者の兵法」は、どうすれば表舞台に立てるかという若き日の思いが込められている。

 選手、監督時代で、野村さんが最も輝いていたのは、圧倒的な戦力や人気を誇ったチームと戦うときだ。自らと率いる選手を鼓舞し、相手を打ち負かすことだけを考える。そのためにはあらゆる角度から突破口を探り、攻めるための準備に労を惜しまない。劣勢に陥れば陥るほど、むしろ状況を楽しむ素振りすら見せた。

 監督時代の野村さんは、壁にぶつかっていた選手に「まず、劣っているという自覚を持て。それから、一つでもいいから変わってみろ」と熱心に言い続けた。スピードのない投手には、打者の胸元を突くシュートの習得を助言。迷いが先走って結果が出せない打者には、打てない球は打てないと割り切る勇気の大切さを説いた。「野村再生工場」の神髄を紐解くと、どうやれば現状打破ができるかという柔軟な発想と行動力に行き着く。

人間臭い茶目っ気も


 野村さんは担当記者をはじめ周囲に不思議と愛された。ヤクルト監督時代に遠征先の宿舎から球場に移動しようとしたが、乗り込んだのは球団のバスではなく、隣にいたプロレス団体のバス。照れながら降りてくるというハプニングがあった。その後、メディアで取り上げられても、当人はいたって涼しい顔。関係者は「ノムさんは反応を面白がっている。『こういう言動をした場合、みんながどう受け止めているかじっくりと見るいい機会』だって言っていた」。卓越した観察力の持ち主は、人間臭い茶目っ気もあった。

 生前、よく「俺は敵が多い」とぼやいた。歯に衣着せぬ物言いで、在籍した球団とも最後まで円満な関係を構築できたとは言い切れない。たとえ相手がONだろうが遠慮なくかみついて毒を吐く。うならせるような語録が各界の賛同を得ているのは事実だが、実際は聖人君子の振る舞いばかりだったとは言いがたい。そんな中、自身の立ち位置は誰よりも理解していた。自分に求められ、なすべきことは何か。ライバルとの名勝負が球界の発展にとって欠かせないということを知り尽くしていた。盛り上げるため、自身の存在価値を高めるための、いわゆる「確信的ヒール」だった。

 数々の名言とともに「ノムラの教え」を残した野村さんだったが、最大の遺産は強烈な個性を放ちながら野球にすべてを捧げた生きざまだろう。凡庸な野球人として生きるのを良しとせず、勝負に徹するため、軋轢(あつれき)が生じる事態も受け入れた。道を極めるために、時には何かを犠牲にしなければならないという覚悟と人生の厳しさを見せてくれた。これは野球にかかわらず、万人に通じる。「グラウンドで倒れて、そのまま死ねたら本望」。独特のだみ声で話した野村さんは、プロフェッショナルそのものだった。
 
写真=BBM
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