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プロ野球回顧録

90年代プロ野球を盛り上げた野村ヤクルト対巨人、思い出の七番勝負を振り返る

 

90年代のセ・リーグを牽引したのは、巨人ヤクルトだった。

90年、94年、96年の優勝は巨人。92年、93年、95年、97年はヤクルトと毎年のようにV争いを繰り広げた両チーム。野村克也は1990年から9年間ヤクルトの監督を務めているので、それはそのまま野村ヤクルトの戦いの歴史でもある。今回は90年代GS対決、思い出の七番勝負を振り返ってみよう。
※文中の監督・選手コメントは「週刊プロ野球セ・パ誕生60年」ベースボール・マガジン社より。

疑惑のホームラン


微妙な打球が本塁打に判定されグラウンドに崩れ落ちた内藤


・1990年4月7日(東京ドーム)

 野村克也監督が就任した新生ヤクルトの開幕戦マウンドに立ったのは、前年12勝を挙げた“ギャオス”こと内藤尚行だった。ヤクルトが3対1の2点リードで迎えた8回裏一死二塁、巨人の篠塚利夫(現・和典)が叩いた打球は右翼ポール際へ。テレビ中継でもファウルに見えたが、判定はホームラン。奇しくもこの年からセ・リーグでそれまでの6人制から審判4人制がスタート。懸念されていた外野への飛球に対するジャッジミスが開幕戦から出てしまった。

 実況席の解説・長嶋茂雄も「う〜ん、このフィルムを見た限り、ちょっと微妙なコースでしたねぇ」とミスター節。当然、内藤はグラウンドに崩れ落ち、野村監督は猛抗議をするのも判定は覆らず、延長14回裏に押し出しでサヨナラ負けを喫する。試合後に「オレの筋書きにないことが起こった。巨人が強いはずだよ」なんてヤクルト監督としてノムさん公式戦初ボヤキ。これをきっかけに東京ドームの外野ポールは打球判断がしやすいよう白色から黄色に塗り替えられた。なお9月8日、同カードにおいて吉村禎章のサヨナラアーチで巨人は両リーグ史上最速のVを決めた。プロ野球の90年代の幕開けは、GS決戦だったのである。

野村監督の“ポカリ事件”


野村監督は思わず荒井の頭をたたいてしまった


・1992年7月5日(神宮球場)

 前年は3位とID野球が浸透し着々とチーム力を上げてきた野村ヤクルト。このシーズンは巨人、阪神広島と僅差の優勝争いを繰り広げた。迎えた7月5日の首位攻防戦、ヤクルト2点リードで迎えた9回表、巨人の原辰徳が打席へ。伊東昭光から内角をえぐられ尻餅をついた直後に同点2ランを左翼スタンドに叩き込む。すると背番号8は珍しく感情を露にバットを空高く放り投げた。いまだに語り継がれる、若大将怒りのバット投げアーチ。90年代に「四番・原」が最も輝いた試合でもある。

 その裏、ヤクルトは一死満塁のサヨナラのチャンスを作り、代打・荒井幸雄が送られる。荒井が打席に入り、野村監督はタイムを要求。しかし、当日は「フジテレビナイター祭り」でいつも以上の大観衆の声援、球審がタイムに気付かず、イラついたノムさんはベンチへの帰り際、初球スクイズのサインに戸惑った荒井のアタマをポカリと叩く。現代なら、コンプライアンス的に大問題になりそうな一件だが、当時は「荒井ポカリ事件」と笑い話になったので牧歌的な時代だったのだろう。試合は大野雄次の決勝アーチで巨人が競り勝つも、この92年はヤクルトが14年ぶりのリーグVを成し遂げた。

ゴジラ松井のプロ初本塁打


東京ドームでプロ初本塁打を放った松井


・1993年5月2日(東京ドーム)

 前年オフに長嶋茂雄が12年ぶりに巨人監督復帰。ドラフト会議で松井秀喜を引き当て、息子の一茂もヤクルトから金銭トレードで獲得した。いわば因縁の「長嶋巨人vs野村ヤクルト」のアングルが始まったシーズンでもある。ゴジラ松井はオープン戦初打席でヤクルト石井一久のカーブについて行けず見逃し三振を喫するなど、20試合で53打数5安打の打率.094、0本塁打で開幕二軍スタート。それでも「自分を落としたことを後悔するような活躍をします」と宣言した背番号55はイースタンで打率.375、4本塁打と格の違いを見せつけ、5月1日に一軍初昇格を果たす。

 松井はさっそくライバル野村ヤクルトとの一戦に「七番・左翼」で即スタメン出場すると、第2打席でタイムリー二塁打を放ちプロ初安打・初打点を記録。いきなりお立ち台に上がり、翌2日の同カードには3点をリードされた9回裏、一軍7打席目で現・ヤクルト監督の高津臣吾から弾丸ライナーの2ランホームランをライトスタンドに突き刺した。サッカーのJリーグ開幕が2週間後に迫っていたが、日本中が注目した18歳の怪物スラッガーのプロ初アーチ。この日の巨人vs.ヤクルト戦は視聴率32.2パーセント、9回裏に松井がホームランをかっ飛ばした午後9時5分の瞬間最高視聴率はなんと39.7パーセントを記録している。

快刀乱麻のルーキー打ち


篠塚にサヨナラ本塁打を浴びた伊藤


・1993年6月9日(石川県立野球場)

 巨人がゴジラ松井なら、ヤクルトのゴールデンルーキーは伊藤智仁だ。そんな売り出し中の背番号20が初めて巨人戦に登板したのが93年6月9日、石川県立野球場での一戦だ。この試合の伊藤は140キロ台後半の直球と高速スライダーを武器に序盤から三振の山を築き、8回終了時までに15奪三振。両チーム無得点で迎えた9回裏一死のシーンで、吉原孝介から三振を奪いセ・リーグタイ記録の16奪三振に並ぶ。

 そして、二死走者なしの場面で打席にプロ18年目のベテラン篠塚を迎えるわけだ。93年の篠塚は208打数70安打で打率.337を記録している。プロ入り時の恩師ミスターの復帰で、昭和の打撃職人が平成球界で復活した。「さあ、次の17個目が日本タイ記録となります!」なんて視聴者をあおる実況アナ、と思ったら篠塚が打席を外す。しかも二度だ。ここでテンポ良く投げていた伊藤のリズムが崩れる。新人投手に対して、百戦錬磨のベテランが仕掛けた駆け引きの数々。直後に仕切り直しの不用意な内角高め138キロの初球を篠塚は思い切り叩くと、起死回生のサヨナラアーチが右翼スタンドに飛び込んだ。打球の行方を確認して、マウンドに両膝から崩れ落ちる伊藤だったが、16Kの快投は多くの野球ファンの記憶に刻まれた。

 なお、この日は皇太子さま・雅子さまご成婚で臨時の国民の祝日となり、日本中が祝福ムードにあふれる中で行われたナイターだった。伊藤は7月の巨人戦で右ヒジを痛め戦線離脱したが、野村ヤクルトは日本シリーズで西武を下し、15年ぶりの日本一に輝いている。

やられたらやり返す乱闘劇


中西に殴り掛かったグラッデン


・1994年5月11日(神宮球場)

 毎年のように僅差の優勝争いを繰り広げるライバル球団同士、投手陣は厳しい内角攻めを連発した。93年6月8日富山市民球場で、宮本和知がID野球の申し子・古田敦也の内角をしつこく突き肩口へ死球を与え両軍にらみ合いに。次打者が放った適時打で本塁突入した古田に、返球をキャッチした捕手の吉原孝介がダメ押しエルボーで応戦。ネクストサークルにいたジャック・ハウエルが激怒、川相昌弘の華麗なヒップアタックも炸裂し、両軍入り乱れる大乱闘に発展する。

 やられたらやり返す、潰し合いのようなセメントマッチの日々は続く。翌94年5月11日の神宮球場では、2回表に西村龍次の速球がバッターボックスの村田真一の側頭部を直撃、一度は立ち上がりマウンドへ向かおうとするも、その場に昏倒して担架で運び出されるアクシデント。すると今度は3回裏に巨人・木田優夫が打席に入った西村の尻にぶつけ返し騒然とする球場。迎えた7回表、再び西村がダン・グラッデンの顔面付近にブラッシュボールを投げてしまう。ここでカリフォルニアの暴れ馬の闘志に火が付いた。

 西村を威嚇して、止めに入った捕手・中西親志に右アッパーを食らわせ殴り合いに。派手に立ち回ったグラッデンは出場停止処分12日間と同時に両手の指を骨折して長期戦線離脱という、あまりに大きな代償を払った。この日の得点経過は覚えてなくとも、これらの乱闘シーンは鮮明に思い出せるファンも多いのではないだろうか(ヤクルトが5対1で勝利)。後日、セ・リーグアグリーメントが現代まで続く「頭部顔面死球があれば、投手は即退場」と改められたわけだが、いわば因縁の東京ダービーは球史を変えたのである。

外国人投手史上3人目の快挙


ノーヒットノーランを達成したブロス


・1995年9月9日(東京ドーム)

 95年ユマ・キャンプで5日間のテストを受けて、ヤクルトの一員となった身長205センチの大男がテリー・ブロスだ。150キロ近い直球に日本で覚えた落ちるスライダーを効果的に使い、この年の最優秀バッテリー賞にも輝く平成最強キャッチャー古田敦也という最高の相棒にも恵まれ、長嶋巨人には5勝0敗とGキラーぶりを発揮。9月9日の巨人戦では外国人投手3人目の快挙となるノーヒットノーランを達成する(チームとしては国鉄時代の61年の森滝義巳以来34年ぶり)。しかも許した走者は23人目の打者・大森剛に与えた死球のみの準完全試合だった。

『週刊ベースボール』10月2日号にはノーヒットノーラン記念インタビューが掲載され、東京ドームのマウンドは他の日本の球場に比べ足場が堅く、投げていてもすぐに掘れてこないから投げやすかったとブロスは語り、さらにボスに対しても感謝を延べている。

「(試合後ベンチ前でノムさんにオジギしたことについて)やっぱり、野村監督に感謝の気持ちを表したかったんだよ。記録が達成できたのは、野村監督があの試合に使ってくれたからだし、さかのぼれば、今年のユマ・キャンプでテストを受けたときに合格を出してくれたから、ヤクルトと契約できたんだしね」

 思えば、ノムさん自身も南海ではテスト生からのスタートだった。この年、最優秀防御率のタイトルを獲得したブロスは、アメリカの自宅の玄関に巨大な野村監督の写真を飾ったという。

開幕戦でベテランが3連発


3打席連続本塁打を放った小早川(右)


・1997年4月4日(東京ドーム)

 ジャイアンツの“平成の大エース”斎藤雅樹は開幕戦に滅法強かった。94年から3年連続開幕戦完封勝利を記録。前年96年は1安打完封と完璧な投球で、対ヤクルトは6勝0敗と無類の強さを発揮。誰もが巨人有利と思った97年4月4日の開幕戦だったが、野村監督はここで広島を自由契約となり、ヤクルトへ入団した小早川毅彦をいきなり「五番・一塁」に抜擢する。すると2回表の第1打席で初球のストレートをバックスクリーン右へ先制アーチをかっ飛ばす。2打席目もノムさんのアドバイスどおり、カーブを狙いすまし叩き特大の同点アーチ。6回表の3打席目はシンカーをとらえライト最前列へ飛び込む3号ソロ。崖っぷちの35歳、小早川の3連発に“平成の大エース”は沈んだ。

「お前はまだいける。大学でも1年目から四番、プロでも新人王を取れた。新しい人生の門出には必ずいいことがある、そういう星をお前は持っているんだ」

 そう言って小早川をその気にさせたノムさんの手腕は「野村再生工場」と称賛され、この年は一度も首位を明け渡すことなく独走Vを果たした。4度の優勝を勝ち取った名将は翌98年限りでヤクルト監督を退任するわけだが、90年代に長嶋巨人と野村ヤクルトが繰り広げた仁義なき戦いの数々は、まさに球史に残る「名勝負数え唄」でもあった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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