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平成助っ人賛歌

年俸3600万円から成り上がった最強助っ人、横浜Vの使者ローズ/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

いい意味で裏切った前評判


横浜・ローズ


 27年前のプロ野球界は、ひとりの高卒ルーキーが話題を独占していた。

 1993年(平成5年)春の松井秀喜である。巨人長嶋茂雄監督が12年ぶりに復帰、自らドラフトで引き当てたゴジラを目撃しようと、宮崎キャンプはいまだに現地で語り継がれる盛り上がりをみせた。背番号55は2月2日のフリー打撃で57スイング中13本のサク越えで周囲の度肝を抜き、13日には3万5000人の来場者がつめかけ、特別に開放された外野席までぎっしり埋まったほどだ。さらに17日にはミスターのファンサービスで取材中のOB江川卓が特別打撃投手を務め、松井との新旧怪物対決はスポーツニュースで繰り返し放送された。ちなみに2月21日にスーパーファミコン初の本格3Dシューティングゲームの『スターフォックス』が発売され、教室のストーブを囲みながら、昼休みに松井とスーファミの話題で盛り上がった記憶がある。

 この年の5月15日、サッカーJリーグが開幕。国立競技場で行われたヴェルディ川崎vs.横浜マリノスはテレビ視聴率32.4パーセントを記録する。その後もしばらくJリーグはゴールデンタイムで生中継され、5月26日の川崎vs.鹿島は21.5パーセントと同日のヤクルトvs.巨人戦の16.6パーセントを上回ったことが話題になった。6月14日の日刊スポーツ1面では「巨人、西武と新リーグ結成」が報じられるなど、まさに野球の危機が叫ばれた年に救世主として現れたのが18歳のスラッガーだったわけだ。なお鈴木一朗はまだ“イチロー”になる前で二軍生活を送っており、プロ野球人気はゴジラ松井のホームランに託されていた。

 そんな93年春、ひとりの新外国人選手がひっそりと来日している。俳優のウィリアム・ボールドウィンによく似たイケメン、横浜のロバート・ローズだ。エンゼルスに所属していたアメリカ時代の92年にバスの事故で頭と足首にケガを負うアクシデントに見舞われ、退院後に球団側からマイナー降格を告げられると移籍を希望。メジャー経験はわずかに73試合で打率.245、5本塁打、23打点の26歳の若者に目をつけたのが横浜の渉外担当・牛込惟浩氏だった。推定年俸は助っ人としてはお得な3600万円、それでも契約が決まった夜、うれしさのあまりローズはその契約書を抱いて寝たという。身長180センチで学生時代はアメリカン・フットボールにも熱中し、マイナーでは1試合で全ポジションを守ったことがある便利屋タイプのファイター。大洋ホエールズから横浜ベイスターズへと生まれ変わったチームの新戦力だが、前年までレッズの四番を打っていた同期入団の大砲グレン・ブラッグスと比較すると注目度は低かった。

 しかし、ローズはいい意味で前評判を裏切る。開幕から「五番・二塁」で130試合フル出場すると、無類の勝負強さを発揮し、来日1年目にいきなり94打点で広澤克実と並び打点王を獲得。打率.325はリーグ2位で二塁手ベストナインにも輝いた。週刊ベースボールの老舗コーナー『川上哲治のテクニカルポイント』では、「ローズのバッティングでいいところは、大きな体重移動をすることなく、投手のタマを自分の体の近くまで引きつけて打つことができる点にある。したがってタイミングさえよければ、自然に長打へとつながるケースも出てくるのだ。スランプが大きくならずに済む打ち方は大きな武器」と絶賛している。

家族を大事にする真面目な男


息子・コーディー君(右)とローズ


 確かに毎年コンスタントに打率3割、90打点をマークし続けるローズの存在感は平成助っ人史上屈指だった。さらにそのタフさも武器で、96年に高熱で途切れるまで405試合連続出場を続ける。素顔は4人の子どもの父親で家族を大事にする真面目な男。当時、六本木には足を踏み入れたことがないとネタになったほどだ。横浜スタジアムへの通勤は1年目が徒歩、2年目が自転車、3年目以降は50ccのスクーターとアルバイトに通う大学生みたいなステップアップで堅実志向も変わらず。球場外のプライバシーを侵されるのを嫌うため、その実績のわりに試合前後のインタビューや私服の写真も極端に少なかった。

「マグワイアvsソーサ“至高のホームラン王争い”ラストスパート」の見出しも確認できる週ベ98年10月12日号の表紙を飾る来日6年目のローズ。ここでは珍しく、私服の当時流行ったnWoのプロレスTシャツ姿を披露しているが、チームは38年ぶりのリーグVに向けて秒読み段階。マシンガン打線の四番を担ったのは、打率.325、96打点の背番号23だった。権藤博監督との相性も良く、横浜が日本一に輝いたこの年は常連のベストナインに加えて、二塁手部門のゴールデン・グラブ賞も初受賞。平成を代表する打てる二塁手は全盛期を迎え、翌99年に爆発する。

 32歳のローズは春先から驚異的なペースで打点を積み重ねていたが、6月8日には「いい時期に自分の判断でやめたい」なんて突然の引退宣言。過去に助っ人選手がリストラされるのを間近で見てきた経験から、せめて退団の時期は自分でコントロールしたいと思ったという。6月19日のヤクルト戦で石井一久から右前安打を放ち、外国人選手8人目の通算1000安打を記録。828試合での到達は長嶋茂雄の849試合をもしのぐ、史上5番目の早さだった。6月30日には広島戦で自身3度目となるサイクルヒットを達成。ちなみにこの試合の横浜は1イニング12得点のチーム新記録で、20対4と爆勝している。

 7月22日のヤクルト戦では1試合10打点の大活躍、ペナント前半終了時にはすでに100打点に達し、ゴールデンルーキーの松坂大輔上原浩治が話題のオールスター戦でも息子のコーディー君を連れベンチ入り。第2戦では本塁打を含む6打点でMVPに輝いた。最終的に打率.369、37本塁打、153点、OPS.1.093というすさまじい成績で首位打者と打点王を獲得。135試合制の当時、192安打は50年の阪神藤村富美男を抜くセ・リーグ記録、打率.369はロッテ時代の落合博満が持つ367を抜く右打者歴代1位。それらはのちに更新されたが、153打点はいまだに外国人選手の最多打点記録として破られていない。なお99年の横浜は史上最高のチーム打率.294(投手を除くと打率.303)を記録している。

“ハマの最強助っ人”のままで


外国人シーズン最多打点記録を持つなど勝負強い打撃を誇った


 その去就が注目されたが、土壇場で家族の説得もあり現役続行を決断。2000年もリーグ最多の168安打、同2位の打率.325をマークしながら、10月9日の本拠地でのヤクルト戦終了後に涙の退団会見を開く。来季から森祇晶監督の就任が決まっており、「新しい監督の野球に、イチからやり直して合わせる精神的、体力的なスタミナがない」と関係者には漏らしたが、この日の球団社長らとの最終交渉が始まったときからローズは席で泣いていたという。

「球団のボクの要求に対する答えはノーだった。でも、イエスと言われても、ボクは2日間待ってくれ、と言って引退するつもりだった。ノーは、新しい人生を始めるサインだった」

「この涙は悔し涙じゃない。幸せな涙だ。こういう結果になったが、自分としては幸せだ」

 交渉決裂後すぐにロッカーでナインと別れの抱擁。その夜は横浜市内のパブでお別れ会が開かれ、駆け付けた権藤監督や翌日先発予定の三浦大輔たちと真面目なローズも明け方まで語り明かした。33歳での現役引退、年俸3600万円から始まった日本生活は、その8年後にタイトル料も含め4億7000万円にまで達していた。通算打率.325、1275安打。まさに球史に残る安定度を誇った優良外国人選手のひとりと言えるだろう。ともに90年代の日本球界を盛り上げたイチローや松井秀喜は直後にメジャー・リーグへ移籍していくが、彼らと同じく図抜けた打撃成績を残したローズが、もし20代後半にメジャー復帰していたらどれだけの数字を叩き出していただろうか? 

 03年に35歳でロッテと契約して春季キャンプ参加するも、「野球への情熱がなくなった」と再来日からわずか28日間で退団。ロバート・ローズは“ハマの最強助っ人”のまま、そのキャリアを終えたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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