一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 大揉めになったロッテ監督問題
今回は『1970年12月7日特大号』。定価は90円。
話は少しさかのぼる。
前年、球団の赤字経営を打破するため、岸信介元首相の仲介で
ロッテ製菓と業務提携したオリオンズの永田雅一オーナーは、
「わし一人では経営的に疲れた。パートナーを探していたんだ。だが、わしの目が黒いうちはオーナーの座はだれにも渡さん。チーム売却なんて話はなかったし、今後もあるわけないよ」
と話していた。
この提携の際、岸元首相の敏腕秘書として知られた中村長芳が、球団経営の立て直しの手助けにと、オーナー代行に就いた。実際、中村は自身の人脈を使い、チケット販売に積極的に動き、赤字削減に成果をあげた。シーズン終盤には勝ち試合に報奨金を出すことを決め、優勝に向けたムードを盛り上げ、やり手と評判になっていた。
ただ、永田との間には少しずつ溝が広がっていたらしい。
きっかけは8月末だった。永田が次期監督に元南海・
鶴岡一人に会い、監督就任を要請。このニュースに驚いたのは濃人監督、ナインだけではない。中村代行もまったく話を聞いておらず、「水くさいぞ」になった。
以後、この監督問題が両者のわだかまりになっていく。
永田はリーグ優勝した後もマスコミ、ファン受けの悪い濃人をとにかく代えたがったが、中村は「優勝した監督を代える必要はない」と強く主張していた。
ただ、互いに遠慮もあったのだろう。2人がこの問題をじっくり話し合った気配はなく、マスコミに対し、互いの意見を発信し合う形になっていた。
11月11日、スポーツ紙が濃人更迭をトップ記事に。永田は記者の「オーナー代行は留任だと言っていますが」の質問に対し、
「だれが何といっても最後の決断はわしが下すんだ。オーナーはこのわしなんだ」
と声を荒げたという。
当時の永田は、まず鶴岡、ダメなら
青田昇、それもダメなら大沢二軍監督の昇格を考えていたらしい。
だが、結局、岸元首相から「優勝監督をクビにするのは」と言われ、断念。当然、中村が岸に頼んで言ってもらったのだろう。
11月14日の選手家族慰安会であいさつに立った永田は、
「日本シリーズに惨敗したのは監督、コーチの責任ではない。もちろん、ナインの責任でもない。オーナーであるわしに勝ち運がなかったのだ。来シーズンこそツキが回ってくるだろう」
監督問題への白旗。スポーツ紙では「退却ラッパ」と書いていた。
永田は最後、「だれが監督になっても文句を言わずついてきてくれ。チームは一致団結してこそ力が出るんだ。協力してくれる人は手をあげてくれ」と言った。
記事ではやるからには濃人についていってくれ、という解釈になっていたが、その後を考えると、「監督」を「オーナー」に変えたほうがしっくりくる。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM