一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 阪急・森本潔のトレード志願
今回は『1970年12月14日号』。定価は80円。
高校三羽烏・箕島高の
島本講平、広陵高・
佐伯和司、岐阜短大付高・湯口敏彦がいずれも1位でプロ入団を決めた。
南海から指名された島本はプロ入りを希望をしていたが、親と学校が東京六大学進学を勧め、反対。箕島高の先輩・
東尾修(西鉄)も「お前はまだ無理」とアドバイスしたというが、本人の意思は固かった。11月26日、入団を決めた際、「男なら一発勝負してやろうと思いました」。
甲子園では投手として活躍した左腕だが、本人はプロでは野手で勝負したいと思っていた。
野村克也監督は、「うちは左投手がいないので、投手と打者の両方で使ってみたいと思っている」と二刀流での起用を示唆した。
佐伯は地元の
広島の指名だったが、大洋が早くから目をつけ、声をかけていた。あとはSFジャイアンツのキャピー原田からも声をかけられ、迷っていたようだ。
ここで追い風となったのは広島ファン。連日、電話やはがきを佐伯家に送り、中には「カープに入らんと家に火をつけるぞ」というものもあった。
ただ、これも時代だが、それもまた、広島ファンの熱心さを物語る美談のように書かれていた。
湯口は
巨人が指名。本人は問題なしだったが、校長先生でもあった松本監督が慎重だった。「巨人に入団し、もしダメだったら、なんらかの形で身分を保証してほしい」と申し出、少し難航したが、結果的には入団が決まった。
阪急の
森本潔が移籍志願をしていた。森本といえば、
西本幸雄監督派と言われた男。一体、何があったのか。
一つには、むらっけのある森本を西本がこらしめとばかりスタメンを外し、本人は西本に冷たくされたとふてくされた。そのときスポーツ新聞で自分がトレード要員、しかも相手の1人に対する複数の1人に挙げられていたのを見て、
「俺はそんな評価しかされてなかったのか。確かにちゃらんぽらんな性格かもしれないが、やるときはやっていた。どうせトレード要員に挙げられているんなら、残っても気持ちのしこりは取れない。どこでもいいからトレードしてくれ」
となった。
三原脩が退団した近鉄監督は
岩本堯となった。
では、またあした
<次回に続く>
写真=BBM