一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 荒川堯の移籍問題再燃
今回は『1970年12月28日号』。定価は80円。
12月に入り、大洋に入団した
荒川堯の周囲があわただしくなってきた(※大洋の1位指名を拒否していたが、水面下で決まった
ヤクルトとの三角トレード前提で、期限ぎりぎりに入団。これがあまりにあからさまだったこともあり、世論の反発とセ会長・鈴木龍二の注意もあって、ひとまず練習には参加していた)。
5日、ヤクルト・松園オーナーが「荒川問題はもう大丈夫」と発言。水面下で大洋と金銭トレードの交渉を続けていたことは、いわば“公然の秘密”だっただけに、ついに移籍決定かと報道陣も色めきだった。
しかし、7日になって大洋の中部オーナーが「荒川君には1年大洋でプレーさせてやったほうがいいと思うんだ。その後で後楽園でも神宮でも自分のやりたいところに行けばいいさ」と話した。
これだけ聞くと移籍はなくなったかのように聞こえるが、
別当薫監督をはじめ、現場では荒川を「来季はいない人」とみなすような言葉が多くなっていた(なお、昨日、荒川なのになぜ背ネームがKからなのかというコメントがあったが、このときは全員がKAWASAKIだった)。
12月4日には、南海の
杉浦忠の引退会見があった。新山球団社長は「翌春のオープン戦
巨人戦を杉浦の引退試合とし、21も永久欠番にしたい」と話した。
引退の話を聞いた立大生同期の
長嶋茂雄(巨人)は、
「スギがやめるなんて、考えるだけで寂しい。何も言えないほどだ。引退試合で打席に立ってスギを見たら、目がかすんで何も見えなくなるだろう」
と話していたが、あなた……。
感傷的になる周囲に対し、杉浦自身はむしろさばさばしていた。
「僕の栄光なんて、もう過去のものだし、それもボロボロ、ヨレヨレになっている。昨年は、少しでもチームの役に立てればと思っていたが、最近は僕がベンチに入る25人の枠を取ると、若い一人を締め出すことになる。迷惑になることが分かった。だからホークスのために身をひくほうがいいと思ったんだ」
と話していた。
また、若い時の投げ過ぎで壊れてしまったという声には、こう笑顔で答えている。
「僕は決して酷使でダメになったとは思わんよ。僕の投手としての体質が投手寿命の短さにつながったと判断しているんだ。手術のあともこれだけ投げられたんだから、むしろ僕は幸せだったと感じ、感謝しているくらいなんだ」
12月11日、南海の
沼沢康一郎コーチが東名高速道で交通事故。車から投げ出され、頭がい骨骨折で意識不明の重体という。医師は、「1週間で意識が回復すれば社会復帰できるだろう」と話していた。
では、またあした
<次回に続く>
写真=BBM