一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 長嶋茂雄の新年への決意
今回は『1971年1月25日号』。定価は80円。
巻頭は伊豆大仁での
巨人・
長嶋茂雄の山籠もり自主トレ。この年で5回目となる。
練習パートナーを1人連れていくのが恒例で、前年は
柴田勲、この年は
淡河弘捕手だった。柴田は新婚なので、断ったのだろう。
前年は長嶋にとって最悪のシーズンになった。打点王にはなっているが、打率.269は入団以来最低。大きな要因は、6月初旬に風邪をひいた際、薬が合わず、自律神経失調症になって完全回復まで3カ月かかったことがあるという。
それでも終盤になって調子を上げ、日本シリーズではMVPにも輝いた。
翌季に向けては、
「白紙でやります。昨年は気持ちのうえで甘い点が多かった。それを反省して新人のようにフレッシュな気持ちでやりますよ。
毎年やっていると、自分では警戒してもマンネリに陥るし、感激性というものが薄れてくる。これが一番いけないことですね。くやしがったり喜んだり、いつもこれをフレッシュに感じないようだと結果から見ていい成績は残っていませんね」
フレッシュは長嶋が好きな言葉でもあった。
12月26日には“ウワサどおり”大洋・
荒川堯の
ヤクルトへの移籍が決定。
「僕は決して大洋というチームが嫌いというわけではありません。あくまで巨人とヤクルトが好きだったわけです」
という言葉があった。ヤクルトの前に巨人があるのが、心境の複雑さを感じさせる。
巨人の異端投手・
若生忠泰(忠男)が引退した。西鉄時代に102勝を挙げ、69年巨人に移籍してきた投手で、独特のトルネードのフォームは「マンボ投法」「ロカビリー投法」とも言われた。
無類の強心臓でも知られた男で、西鉄を出たのは、
中西太監督との確執が理由。それはそうだろう。「あの人は体は大きいが、肝っ玉の小さい男でね」と記者たちの前でも言いたい放題だった。
これを愛嬌がある、と面白がる人もいたが、合わない人とはとことん合わなかった。
巨人での入団会見でも、その前に若生が
沢村栄治の永久欠番14をほしがっているというウワサもあったことを聞かれ、
「いくら俺がしゃれっ気が強いと言ってもそれはないよ。14をくれというくらいなら、監督の現役時代の16を要求するぜ」
と言って、隣に座っていた
川上哲治監督がふき出させた。
練習嫌いで、少しピッチングをしてはすぐ休憩。「俺はいまさら練習しても伸びやしない。だけどやれと言われたやる。それだけさ」と言っていたが、あの
金田正一が、
「あいつは大したヤツだ。ろくに練習もしないくせに、よう長生きしている」
と感心していたくらいだからセンスのある投手だったのだろう。
70年は一軍でほとんど出番がなかったが、それは右手指の故障に加え、生真面目な
中尾碩志二軍監督とまったくそりが合わず、一軍に上げてもらえなかったこともある。
「監督はともかくごますりコーチには規格品以外も認める大きい心がないんだ」
が、捨て台詞だった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM