一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 野球選手は記録、と張本勲が主張
今回は『1971年2月8日号』。定価は90円。
ロッテ・永田雅一オーナー退陣で2回やったが、もう1回分、同じ号から書く。
大騒動の末、大洋から移籍した
ヤクルトの新人?・
荒川堯が、1月20日、神宮の自主トレに初参加した。
「とにかく1日も早く決着がついてほしい」
と荒川が話していたのは制裁処分の内容だ。セ・リーグの理事会で出場停止を骨子にする処分を下すことだけは決まっていたが、この時点では細かい部分の決定はまだだった。
松園オーナーは、鈴木龍二セ会長の説得にもかかわらず、荒川と契約。
「法が決めるすれすれのところまでやって、トレードを実現させた。そうまでしなくてはファンに不振挽回の責任が果たせたとは言えない」
と話していた。
鈴木会長もこうなればと思ったのか、その後はヤクルトに協力し、宮沢コミッショナー委員長が主張した「1年間の出場辞退勧告」を「公式戦1カ月出場辞退」に譲歩させた。
ただ、次に波紋を起こしたのは父親だ。巨人を退団した
荒川博が2月1日からの湯之元キャンプで、息子の指導をしたい、と要求してきた。
とんでもないとは思うが、
三原脩監督は
中西太ヘッドコーチに、
「堯君のことは荒川に任せない。彼の打撃に手を出さないように」
と言っていた。
そのほうが荒川のためにいいと思ったのか、あるいは話題づくりにちょうどいいと思ったのか。この人の考えは、いつも読みづらい。
日本最高の打率.3834をマークした東映・
張本勲が契約でもめていた。
球団の提示は13パーセントアップの1900万円。「昨年に関する限り、ワシはノー文句の成績を残したはずだ。悪くても30パーセントは」という張本に球団代表は、
「君くらいの年俸になると数字は問題じゃない」
と言い、張本は、
「冗談じゃない。野球選手は記録で生きているんだ。その言い分には納得できん」
と頑なになったらしい。
呑気な話も1つ書いておこう。
東映のカールトン半田コーチに自ら電話をかけて売り込んできた22歳のエドモンド青年の話だ。
「自分はアメリカのアマチュアでピッチャーをやっていた。兵役も終わったし、ぜひフライヤーズで頑張りたい。テストしてくれ」
ということだった。
兵役中に出会った日本人女性と結婚し、日本で暮らすことにしたが、仕事がない、好きな野球でもやるか、ということらしい。
左腕と聞いて興味を持った半田コーチが多摩川に呼んだが、投げさせてみると、球がホームベースに届かず、3日でクビ。
エドモンド青年、「まだ寒いから筋肉があったまっていないだけ。もったいないと思うんだがな」と捨て台詞を残し、去っていった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM