一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 諸君と赤の他人になるわけではない
今回は『1971年2月15日号』。定価は80円。
1971年1月25日午後5時、東京球場脇のレストランに自主トレを終えた
ロッテの全選手が集まっていた。
午後4時から永田雅一オーナーのお別れ会が始まるはずだったが、ロッテ製菓の役員会が長引き、開催が遅れていた。
永田はすでに来ていたが、ロッテ製菓の重光武雄オーナーを待っての延期だった。結局、重光は役員会が長引いたことで参加しなかった。
「長らくお待たせしました」
永田オーナーの低い声での言葉が響くと、選手が一斉に下を向いた。
「このたびは選手諸君に多大のショックを与え、誠に申し訳なく思っております。心からおわび申し上げます。
ここ数年来、本体の映画が危機に直面し、映画と野球を半身ずつ手掛けてまいりました私にとって、苦しいときでありました。
そしてこの際、大映を救うためには、断腸の思いでありますが、球団から手を引かざるを得ません。
私は映画に生き、映画に死ぬ男でもあります。大映を死守しなくてはなりません。どうか、この私の立場を同情を持って了解してもらいたいのです」
途中何度も話が途切れる。歯切れが悪いが、仕方がない。
永田は一生懸命涙をこらえて続けた。
「しかし、私はオリオンズオーナーを去っても、諸君と赤の他人になるわけではありません。私の生存する限り、私の魂は、球界、そしてロッテ・オリオンズに生き続けるのです。
どうか諸君、近い将来、私は再びプロ野球に戻ってくるつもりです。私は旅に出るのです。そう思ってください。そして、私が戻ってきたときは、かねてからの宿願である日本一になって迎えてください。
それまでは(東京)スタジアムの社長として、応援させていただきます。どうか球団を立派に育てるために、元気でやってください。諸君、どうか元気でやってください」
選手からすすり泣きがもれた。
あいさつが終わり、席についた永田は待ちきれんように白いハンカチを使い、流れ落ちる涙をふいた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM