努力の末、自らのポジションを獲得した中京大中京高・杉浦文哉。夏に輝いた姿を見たい
孫にしか分からない重圧と闘っていた。
杉浦文哉の祖父・藤文氏(故人)は、中京大中京高(愛知)におけるレジェンドだ。1959年春のセンバツでは「一番・二塁」で優勝に貢献すると、監督としては66年に作新学院高(栃木)に次ぐ、史上2校目の春夏連覇へ導いた。旧校名の中京商高の選手、指揮官として甲子園の頂点を知る稀代の野球人である。
名将の孫は「CHUKYO」のユニフォームにあこがれ、同校へ進学も、周囲は「特別な目」で見た。中学時代に目立った実績はない。しかし、練習試合ともなると、相手校の監督、また、OBからも声をかけられた。祖父の偉大さを肌で知るわけだが、そのたびに複雑な心境となった。現実とのギャップに苦しんだ。
「自分はB戦(二軍)にも出られないレベル。(秋の)1年生大会でも、試合にかかわることもなく、2年春になってもBチームの控えの遊撃手。正直、肩身の狭い思いをしました」
この状況を打開するには、練習しかなかった。朝5時に起きて、学校に一番乗りし、6時30分過ぎからの主体練習(自主トレ)を継続。2年秋、アピールポイントである打力で初めてベンチ入りすると、愛知高との3回戦では代打でサヨナラ打を放った。ここ一番の切り札として、その地位を確立。昨秋は公式戦打率.600(5打数3安打2打点)。県大会、東海大会、明治神宮大会をいずれも制して、公式戦19連勝のVメンバーの一員となった。
杉浦には、底抜けの明るさもある。センバツ前に実施したマネジャーアンケートでは「チームに欠かせないムードメーカー」として名前が挙がった。また「チーム一の練習の虫」でもあり、一目置かれる存在だ。冬場の取り組みを経て、打力がアップ。外野のレギュラー争いに加わるまで、メキメキと力をつけていた。10年ぶり31回目のセンバツ甲子園出場。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大により、大会は史上初の中止となった。祖父と同じ舞台に立つことはできなかった……。
「今回の甲子園を、おじいちゃんはどこかで見ていると思います。活躍して、良い報告をしたい。(孫として)見合う結果を残していないので、高橋(源一郎)監督にも恩返ししたいです」。2月上旬、取材に応じた杉浦はこう決意を語っていただけに、無念でならない。
中京大中京高は「夏一本」へ再始動した。
同校には1学年下の弟・泰文内野手が在籍し、常に前向きな兄としては、弱気な姿を見せるわけにはいかない。高校卒業後は大学進学し、祖父の背中を追って、指導者の道を夢見ている。孫にしか分からないプレッシャーを克服した強じんな精神力。そして、努力の天才。2020年春、かつてない窮地を味わっているが、すべての経験が将来の糧になる。
文=岡本朋祐 写真=井田新輔