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プロ野球回顧録

原、松井、阿部、高橋由らが躍動! 巨人平成開幕戦の名勝負を振り返る

 

原辰徳、平成第1号アーチ


“平成1号”を放って喜色満面でダイヤモンドを一周した原


・1989年4月8日東京ドーム、巨人6対2ヤクルト

 平成第1号は巨人の四番打者だった。平成元年の開幕戦、1回裏、二死三塁の場面で原辰徳がカウント2−2から、尾花高夫(ヤクルト)のカーブをレフトスタンドへ。両手を突き上げた若大将はうれしさのあまり興奮状態でベースを駆け抜けると、用意された祝福の花束や童夢くん人形の受け取りを忘れてナインとハイタッチ。開場2年目のまだ屋根が真っ白な東京ドームは、日本ハムも本拠地として使用しており同日ナイターで開幕するため、巨人はひと足早く午後1時プレイボール。どの球場よりも真っ先に飛び出した記念すべき一発が原の通算250号だった。

 恩師・藤田元司監督の復帰により、慣れ親しんだ三塁から左翼へコンバート。30歳の再出発を最高の形で飾った大人のタツノリは、第2打席でも尾花が投じたヒザ元内角低めのストレートを巧みにすくい上げ、2打席連続アーチを放ってみせる。チームの顔の活躍で勢いに乗った巨人は、21歳の開幕投手・桑田真澄中日から移籍の中尾孝義の強気なリードに引っ張られ、わずか99球の無四球完投勝利で原とともにお立ち台に上がった。

 さらに注目すべきは翌日で、藤田監督は第2戦の先発に前年度6勝の斎藤雅樹を抜擢。1点リードされて迎えた7回裏、打順が斎藤に回り誰もが交代と思ったが、ベンチの藤田監督は代打を送らずそのまま打席に立たせた。結果的に8回も続投し、その裏に四番・原に連日の3号同点2ランが飛び出すと、最後はヤクルトの新助っ人・アイケルバーガーの暴投でサヨナラ勝ち。この年、斎藤は日本記録の11連続完投勝利を含むキャリア初の20勝を挙げ、“平成の大エース”の道を歩むことになる。まさに巨人の平成は、この開幕シリーズから始まったのである。

19歳松井、40歳落合のアベックアーチ


お立ち台に上がった落合、斎藤、松井(左から)


・1994年4月9日東京ドーム、巨人11対0広島

「プロ野球の危機はどこへ行ってしまったのだろう。4月9日にゴジラがふた声ほえれば、日本中の目がいっせいにプロ野球に向けられるのだ」

 週刊ベースボール94年4月25日号の巻頭カラーページは、そんな一文から始まる。表紙は松井秀喜の写真と「面白いゾ、プロ野球!!」の見出しだ。93年に開幕したサッカーのJリーグが大人気となり、当時プロ野球の若き救世主として球界の未来を託されたのが背番号55だった。ルーキーイヤーの前年は開幕二軍スタートだったため、松井は自身初の開幕戦を「三番・右翼」で迎える。

 すると初回、広島先発の北別府学が投じたカウント1−2からの4球目、107キロのカーブをライトスタンドへ叩き込む。19歳10カ月の開幕弾に東京ドームの大観衆は沸いたが、ゴジラは4回にも紀藤真琴の138キロの直球をレフトポール際へ。10代選手としては1953年の中西太(西鉄)以来史上2人目の開幕戦2ホーマーを放った。

 この年、球団創立60周年の巨人は導入されたばかりのFA制度で中日から落合博満を獲得していた。背番号60を着けた40歳の第60代四番打者には、球団OBから「オレ流を認めるのかどうかとか、入る前からそんな心配をしなければならない選手を迎えるということ自体がおかしい」と辛辣な批判も。あの張本勲も、週刊ベースボール誌上で「とにかく死にもの狂いでやるしかない。オレ流の調整法などといってる場合じゃないと私は思いますよ」なんて喝。そんな外野の声をあざ笑うかのように落合は第2打席で紀藤から内角低めの速球をレフトスタンドへ。巨人移籍第1号に長嶋茂雄監督も「アレは紀藤のベストピッチ。落合のほうが上でした」と喜んだ。

 試合後のヒーローインタビューは3安打5打点の松井、いきなり四番の働きを見せた落合のMO砲に加え、完封勝利の斎藤雅樹と役者がそろい踏み。最終的に94年の長嶋巨人は中日との10.8決戦を制し優勝するが、伝説の一戦のテレビ視聴率は野球中継史上最高の48.8パーセントを記録。プロ野球が「国民的娯楽」だと証明してみせたのである。

斎藤雅樹、史上初の3年連続開幕戦完封


貫禄の投球で3年連続開幕戦完封を成し遂げた斎藤


・1996年4月5日東京ドーム、巨人9対0阪神

 タレントの飯島直子が始球式を務めた平成8年開幕戦マウンドには、もちろん斎藤雅樹が上がっていた。前年まで2年連続開幕戦完封勝ちの“平成の大エース”は当時31歳と円熟期を迎えていたが、キャンプイン直前に右太ももに肉離れを起こし、開幕6日前のセ・リーグトーナメントでは開幕の相手、阪神に打ち込まれ不安視される中での登板だった。

 しかし、始まってみたら圧巻の1安打完封勝利。無四球で、しかも許した走者一人も盗塁死となり全27打者で投げ切った。ミスターは「もう満点です。あのパーフェクトなピッチングを見たら(相手が)打てないのも仕方ない。やっぱり斎藤ですね」なんて毎年恒例のデジャヴのような絶賛のコメントを残し、敵将の阪神・藤田平監督も「経験豊富だし、慣れてるよ。ひと味違うねえ。気合いも入っていたし、ボールにスピードとキレがあった。エースだねえ」なんつって開幕からそこまで相手エースを褒めていいのかと心配になるくらいの快投だった。

 だが、史上初の開幕戦3年連続完封勝利にも、マスコミはもうこの春の風物詩に慣れてしまったのか、翌日のスポーツ新聞一面は4紙が開幕戦でデビューした新人の仁志敏久をデカデカと報じた。

 前年限りで引退した原辰徳の背番号8を継承した男は、球団ではその81年の原以来、15年ぶりのルーキー開幕スタメン出場。「一番・二塁」で初回に藪恵一(現・恵壹)から145キロの速球をセンター前に弾き返し、第2打席でもヒットで出塁すると、果敢にノーサインで二盗を決めた。大砲タイプが並ぶ巨人打線において、スピード&チャージの申し子として存在感を見せた新リードオフマンは、5打数3安打とセ・リーグでは38年ぶりの新人開幕猛打賞で飾る。

 なお、この96年開幕戦、松井秀喜が戦後の巨人では史上最年少の21歳の開幕四番打者を務め、4打席目にボテボテの内野安打を放ち、5打数1安打。対する五番・落合博満は先制2点タイムリー二塁打を放ち「先は長いよ。四番? まあ変わるだろうね」と42歳の意地をチラリ。ゴジラvsオレ流の巨人四番争いが注目されたシーズンが幕を開けたのである。

阿部慎之助が開幕スタメンデビュー


ルーキーながら開幕スタメンマスクをかぶり、大勝に貢献した阿部


・2001年3月30日東京ドーム、巨人17対3阪神

 プロ野球界も21世紀の幕開け。逆指名で巨人入りした阿部慎之助は新人では山倉和博以来23年ぶりの開幕マスクをかぶり、のちの球団史上最高の打てる捕手も八番打者としてそのキャリアをスタートさせる。極度の緊張で3日前から熱が出たという背番号10は、2回一死二、三塁で回ってきた初打席でいきなり右中間へ2点タイムリー二塁打を放つ。3回の第2打席でも連続2点タイムリー。ルーキーでは史上初の開幕戦4打点デビューを飾り、ライトスタンドには「浦安の星」という今となっては微笑ましい旗も掲げられた。

 長嶋茂雄監督は「立ち上がりの悪い上原に我慢強くシグナルを送った。マスクのパワーがすごかった」となんだかよく分からないけど言いたいことは分かるミスター節で称賛。巨人は前年までの正捕手・村田真一が当時37歳。2000年の日本シリーズでは優秀選手賞も受賞していたが、原辰徳ヘッドコーチが長嶋監督に阿部の開幕スタメンを提案した。

 開幕バッテリーを組んだのはプロ3年目の上原浩治。スタメンは「一番・二塁」仁志敏久、「二番・遊撃」二岡智宏、「三番・右翼」高橋由伸、「四番・中堅」松井秀喜、「七番・左翼」清水隆行とまだ20代の若手選手たちがズラリと並び、その世代交代最後のピースが22歳の捕手・阿部慎之助だった。結局、01年限りで長嶋監督が退任。斎藤雅樹、槙原寛己、村田真といった90年代の主力選手も続々と現役引退とチームの変わり目のシーズンでもあった。

 阿部はここから10年連続の開幕マスク。まさに21世紀の巨人を象徴する選手となったのである。

新一番・高橋由伸、初球先頭打者アーチ


三浦の初球を見事にとらえ、いきなり右中間席へ叩き込んだ高橋由


・2007年3月30日横浜スタジアム、巨人3対2横浜

 背番号24が、一番打者として開幕戦のまっさらな打席に立っていた。1998年4月3日の神宮球場でプロデビューしてから早いもので10年目のシーズン。3月15日のヤクルトとのオープン戦で原監督は「一番・高橋由伸」をお披露目すると、二番にはオリックスからトレードで加入した谷佳知、三番は日本ハムからFA移籍の小笠原道大を起用。開幕戦を「一番・右翼」高橋、「二番・左翼」谷、「三番・三塁」小笠原の新オーダーで迎えた。

 18時15分、球審の右手が上がりプレイボール。横浜のエース・三浦大輔が投じた2007年第1球は真ん中へのスライダー、新トップバッターはこれを思い切りよく叩くと打球は右中間へ。打った瞬間、それと分かる当たりにスタンドインを確信して右腕を高く掲げながら走り出す背番号24。地上波中継時代最後のスーパースターといわれた男のひと振りは、なんとセ・リーグ史上初の開幕戦の初球先頭打者本塁打。巨人では長嶋茂雄以来の3年連続開幕アーチだった。

 初の開幕投手を託された24歳・内海哲也を、強力に援護した一番・高橋はその後も固定され、先頭打者弾シーズン9本のプロ野球新記録を樹立。自己最多の35本塁打を放ち、外野手として8年ぶりのベストナイン、4年ぶりのゴールデン・グラブ賞を受賞。5年ぶりのリーグVの原動力となり、結果的に一番起用をきっかけによみがえった。

 21世紀に入り、松井秀喜や上原浩治はメジャー・リーグを目指し海を渡り、仁志敏久や二岡智宏や清水隆行はそれぞれ他球団で現役を終えたが、背番号24だけは最初から最後までジャイアンツのユニフォームを着て、東京ドームのど真ん中に立ち続けたわけだ。

 とどのつまり、“平成の巨人軍”とは、高橋由伸だったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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