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プロ野球20世紀・不屈の物語

巨人の“怪物”江川卓に挑み続けた男・西本聖/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜87年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「でも、僕には何もなかった」



 例年よりも球音が待ち遠しい2020年。奨励されている換気で部屋の空気を入れ換えても、なかなか気持ちまでは入れ換えることができない……。そんな閉塞感に覆われている人も少なくないだろう。ただ、明けない夜はないし、どんなに遅れても春は訪れる。それまでの辛抱なのだが、これがなかなか難しい。

 閑話休題。プロ野球の幕が開けない今だからこそ、あらためてプロ野球の歴史を振り返ってみたい。言うまでもなく、プロ野球は勝負の世界。勝者もいれば敗者もいる。ただ、勝者は永遠の勝者ではなく、今日の敗者が明日の勝者となることもある。球界に限らず、塞ぎ込みがちな今だからこそ、先人たちの足跡をたどり、雌伏を余儀なくされた男たちの、不屈の後ろ姿を追いかけてみたい。

 1980年代は、テレビの地上波で、ペナントレース中は毎日のようにプロ野球の試合を見ることができた。その中心にいたのは巨人。さらにその中心には、江川卓という右腕がいた。その快速球は甲子園、東京六大学リーグを沸かせ、空前絶後の紆余曲折を経て巨人へ。まさにスターだった。そんな江川に挑んだ男は少なくない。ライバルの阪神で四番打者として名勝負を繰り広げた掛布雅之も、そんなひとりだろう。あるときは江川に、あるときは掛布に、それぞれ軍配が上がった。ともにライバルと認め合う存在だったが、どちらが勝者かは決められない関係性。投手と打者というものは、そういうものかもしれない。

「ライバルって、同じチームの同じポジションにしかいないと思う。同じ条件で戦う中で、どっちが上かを競うんです」

 と語るのは、巨人の西本聖。同じチームの右腕で、投手と打者として対戦することはなかった。だが、西本は江川を自らのライバルと位置づけ、挑み続けた。

 1975年に巨人へ。“事件”とも評された江川の入団とは対照的に、静かにプロのキャリアをスタートさせた。同期のドラフト1位は同じく右腕の定岡正二。甲子園でアイドル的な人気を博したスターであり、それは巨人でも変わらなかった。ファンだけではない。報道陣、首脳陣。誰もが定岡に注目していた。一方、同じブルペンで投げているドラフト外の右腕には、その存在にすら誰も気づいていないようだった。定岡は契約金3000万円、背番号20。その隣で黙々と投げていた右腕は契約金800万円、背番号58だった。

「悔しかった。でも、僕には何もなかったから。あるのは135キロのストレートと曲がらないカーブ、ナチュラルのシュートだけ。ただ、練習量は誰にも負けなかった。定岡を抜くんだ、という強い気持ちがありました」(西本)

 猛練習の結果が出るのには2年もの時間を要した。3年目の77年に台頭。二軍で苦しむ定岡に先んじて一軍に定着する。

 救援登板を中心に初の規定投球回到達で8勝6セーブ、リーグ2位の防御率2.76をマークしたのが79年。天を貫かんばかりに真っすぐ左足を上げる豪快な投球フォームから、ストレートとシュートで真っ向勝負を挑むスタイルだった。

「『巨人の星』の影響かもしれない(笑)。速く投げるために足を上げました。でも右肩が下がりやすく、傾斜のあるマウンドから投げる瞬間に左肩が下がるので、最初に右肩が下がっていると頭が動いてブレやすくなり、コントロールが難しい。スピードよりもコントロールを重視した安定したフォームに変えていきました」(西本)

 と、のちに振り返っている。

「打たれろ、負けろ」


足を高く上げるフォームが特徴的だった


 その79年は江川の1年目でもあった。その球を見て驚いたという。スピードでは、とても勝てない。巨人が5月いっぱいまで江川の一軍登録を自粛したが、それでも江川は先発の一角で規定投球回に到達し、リーグ3位の防御率2.80。9勝を挙げて、白星では後塵を拝した。圧倒的な才能に努力で立ち向かった男が描いた珠玉のライバルストーリーが始まる。

「言葉にはしませんでしたが、『打たれろ、負けろ』と思ったこともある。好き嫌いじゃないんです」(西本)

 快速球で三振の山を築く江川の一方で、凡打の山を築いたのが多彩な変化を見せるシュートだった。

「自分が投げやすく、大きく変化する握りを自分で研究しました。それをヒジではなく手首を使って投げる。車にたとえれば、アクセルを踏みながらブレーキを引くイメージです」(西本)

 だが、白星では江川に届かず。ともに先発で競い合った80年に14勝も、江川は16勝で初の最多勝。優勝に貢献した81年には18勝で沢村賞も、江川が20勝で最多勝、MVPに輝き、「沢村賞も江川が選ばれるべきだった」という冷淡な反応もあった。82年から84年まで3年連続15勝で、江川が19勝、16勝、15勝。84年に初めて江川と並んだが、87年に13勝の江川が突然の引退。中日へ移籍して1年目の89年に自己最多の20勝で初の最多勝に輝くなど、通算では江川の135勝を上回る165勝を残したものの、切磋琢磨した9年間では、1度たりともシーズンの白星で江川を超えることができなかった。

 ただ、2度の日本シリーズでは、江川をしのぐ印象、そして結果を残したと言える。81年、日本ハムと激突したシリーズでは2勝、防御率0.50でMVP。沢村賞にまつわる批判を自らの右腕で吹き飛ばし、日本一の立役者となった。西武と対決した83年のシリーズでは、敗れたものの2勝1敗、防御率1.73。2度にまたがり29イニング連続無失点もあった。

「日本シリーズはプロにとって最高の舞台。29イニング連続無失点には僕の野球人生すべてが詰まっています」(西本)

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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