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プロ野球20世紀・不屈の物語

若き日の落合博満が真正面から受けた逆風/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜82年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

25歳でロッテ入団


ロッテ時代の落合博満(1982年撮影)


 高校を出て、すぐにプロ野球選手になるのと、大学や社会人を経由して、20歳を過ぎてからプロ野球選手になるのとで、どちらが有利か不利かは一概には言えないだろう。ただ、25歳、26歳を迎えるシーズンにプロとなるのは、やはり有利だとは思えない。そこそこのハンディキャップがあるようにも見える。ただ、そこから超一流になった選手は多くないとはいえ、存在する。そんな1人が落合博満だ。

 20世紀を経験したファンにとって、その打撃が超一流であることは説明の必要もあるまい。一方、それを知識としては持っていても、21世紀に中日に黄金時代を築いた監督、という経験しかない若きファンも多くなってきていることだろう。出る杭は打たれる、という。“オレ流”監督は、若いころから“オレ流”であり、出る杭として打たれ、それでも出続けた不屈の少年であり、若者だった。

 巨人長嶋茂雄にあこがれ、中学で野球を始めたが、秋田工高では上下関係に嫌気がさして野球部を離れ、映画館に通い詰めていたという。ただ、完全に退部というわけではなく、大切な試合のときだけ監督が呼びにきて、四番を打った。東洋大でも、やはり上下関係に嫌気がさして、ここでは完全に退部。野球で入ったのだから大学にいても仕方がない、と大学までやめてしまった。秋田へ戻り、もともと好きだったボウリングのプロを目指すも、テストを受けるために車で向かい、スピード違反で罰金を払ったことで受験料が払えなくなって断念したとか。単に出ただけの杭であれば、これだけのことが続けば、自暴自棄に陥ったかもしれない。ただ、ちゃんと出る杭は打たれても出る。

 東芝府中で野球を再開して、2年目から四番に。プロのスカウトがあいさつに来るようにもなった。だが、今度は会社が「出せない」と道を阻まれる。しかし、それまでの意味不明な上下関係などとは違って、チームの戦力だからこその対応ではあった。会社の許可が出たのは1977年。だが、このときは逆に指名はなし。翌78年の秋、12月で25歳となる年のドラフトが最後のチャンスと感じていたという。あいさつは10球団からあった。指名したのはロッテで、3位。長嶋監督の巨人も指名に動いていたといわれるが、江川卓との契約を巡って大事件に発展した、いわゆる“江川事件”のため、巨人がドラフトをボイコット。そのままロッテへ入団することになる。

批判される三冠王


 プロでも逆風はやまない。初の自主トレでフリー打撃をしていると、通算400勝を残した左腕で、78年まで監督を務めていた金田正一と、現在の山内一弘監督が並んで話をしていた。すると金田が大きな声で「こんな打ち方じゃプロでは通用せんぞ」、山内も「そうだね」。もちろん、まる聞こえだった。「なんで使えない選手を獲得したんだ」と腹が立ったという。ただ、そうは言ったものの評価していたのだろう、すぐに山内監督は熱心に打撃指導を始めた。だが、たとえ話が多く、どうもピンと来ない。「ダメならクビで結構ですから放っておいてください」と、監督に向かって言い放った。のちに、技術が高まるにつれて山内の指導が分かるようになったと振り返っているが、山内に指導された、体の正面に来るマシンの球をさばく練習は続けている。

 開幕は二軍スタートだったが、結果は比較的、早く出た。柔らかい握りで、しなやかにスイングする捕手の土肥健二を観察し、のちに“神主打法”と呼ばれる打撃を完成させていく。3年目の81年に初の規定打席到達、4試合連続を含む33本塁打を放っただけでなく、打率.326をマークして、いきなり首位打者に。翌82年は打率.325、32本塁打、99打点。28歳、史上最年少で自身初、プロ野球4人目の三冠王に輝いて、「一番うれしいタイトルは首位打者」と語った。だが、目立ったのは数字の低さに対する批判だった。

 これに対して、その翌83年、「オレは3000安打とか800本塁打とか、できる年齢じゃない。打率4割でも打ってプロ野球の世界に名を残したい」と、前人未到の打率4割を目標に設定する。その後の挑戦については、また機会を改めて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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