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プロ野球20世紀・不屈の物語

プロ野球の頂点に立って表彰を逃した高木豊の憂鬱/プロ野球20世紀・不屈の物語【1987年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

名二塁手の黄金期


大洋・高木豊


 80年あまり昔、プロ野球の草創期は、用具も粗悪で打球が飛ばず、守備は観客を集める重要な“商売道具”だった。まだまだ野球そのものが珍しかった時代、抜群の身体能力で繰り広げられる好プレーは観衆を沸かせた。それが戦後になると、グッと肩身が狭くなってくる。セネタースでデビューした大下弘が虹のような弧を描くホームランを量産すると、ホームラン・ブームが沸き起こり、対照的に守備は地味な存在となっていった。

 単純な比較は禁物だが、7度の失敗があっても3度の成功で評価されるのが打撃。人間は多くの失敗を繰り返しながら成長していくもので、人生においても、若いころの失敗と、それを超克した上での成功、これも成功率3割くらいに落ち着くような気がする。失敗を認めない人はいても、失敗しない人など存在しないのだ。だが、プロ野球の守備となると話が違ってくる。1度の失敗は非難の対象となり、シーズン中盤の1失策くらいで優勝が左右されるほどプロ野球は簡単な世界ではないはずなのに、しばしば「あのエラーで優勝を逃した」のようなことが言われ、その批判の過熱は選手生命にも危機を呼んでいく。人生にも何らかの悪意にさらされて似たようなことになることがないわけではないが、取り返しのつかない致命的な失敗さえしなければ、どうにかやっていけるのが人生であり、成功しても評価されないのに失敗すれば徹底的に叩かれる守備というものは、つくづく分が悪い存在だと思わされる。

 さて、時は流れて1987年。二塁手が首位打者のタイトルを分け合うという珍事が起きた。1人は巨人篠塚利夫、もう1人は広島正田耕三で、それぞれ常に優勝を争う位置にいるチームで定位置を確固たるものにしていた名二塁手。篠塚は天才的な打撃センスを誇った左打者で2度目の戴冠、小兵ながら猛練習で這い上がってきた正田はスイッチヒッターとしては初めての快挙を成し遂げた。

 80年代は名二塁手の黄金期だった。当初は大洋の基満男西武山崎裕之ら職人タイプが光っていたが、打撃でも脚光を浴びる二塁手が増えていく。守備よりも打撃で印象に残るのは阪神真弓明信岡田彰布だろうか。一方のパ・リーグには、近鉄に大石大二郎ロッテ西村徳文、この87年は出遅れたものの西武には辻発彦がいて、日本ハムでは白井一幸が台頭。そんな黄金期の87年、わずか2失策、守備率.997でプロ野球の頂点に立ったのが、大洋の高木豊だった。

二塁の表彰も“分け合った”篠塚と正田


高い安定感を誇った高木の二塁守備


 高木は打っても一流で、打率3割の常連でもあり、85年には近藤貞雄監督による“スーパーカー・トリオ”で一番打者として打線を引っ張った韋駄天でもある。その85年には、やはり近藤監督の奇策“裏返しコンバート”で二塁から遊撃へ。そして87年に二塁へ戻って、快挙を達成したのだった。ちなみに、この87年は、72年に創設されたダイヤモンド・グラブが現在のゴールデン・グラブとなって2年目。そんな守備の表彰は、高木が受賞するものと思われ、高木にも、その自信があった。だが、巨人が優勝、広島は堅調にAクラス3位、大洋は定位置の(?)Bクラス、5位でシーズンを終えると、二塁のベストナインは篠塚、ゴールデン・グラブは正田が獲得して、首位打者に続いて二塁の表彰も篠塚と正田が“分け合う”形となる。高木は敢然と異議を唱えたが、もちろん結果は覆らなかった。

「発表の前に受賞コメントをくださいと求められたんですよね。『万が一(ゴールデン・グラブを)獲れなかったら、二度といらない、というコメントを出していいから』と言ったんです。それが(発表の後に)載っちゃった。それから、ほんとうに選ばれなかったですね。口は災いの元、というか(笑)」(高木)

 頂点を極めても報われないこともある守備。名手ほど好プレーが平凡なプレーに見えたりする横顔もあるから、さらに厄介だ。周囲からは見えづらいだけで、もしかすると、守備に就いている選手すべてに、目に見えない不屈の物語が静かに流れているのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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