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プロ野球20世紀・不屈の物語

戦局の悪化でプロ野球が無念の休止、そして復活へ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1944〜45年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

主力たちの悲報


沢村栄治(右)、フィリピン戦線にて


 プロ野球の歴史を回顧するとき、戦前や戦後復興期、印象だけで言えば、不鮮明なモノクロ写真しか残っていないような時代について、特にONLINEでの紹介では、どうにも人気がない。ただ、プロ野球の20世紀を語る上で避けて通ることはできないということもあるが、こんな今だからこそ、あえて、お届けしたい。

 今日ご紹介するのは、戦争で各地の空襲が始まった1944年、その戦争が終わった45年のプロ野球についてだ。プロ野球が始まったのは、開戦の5年前、36年のことで、最初は7球団、のちに2球団が加わって、39年の秋からは9球団となっていた。41年には2球団の合併で全8球団となったが、6月にはアメリカ政府が日本にいるアメリカ国籍の保有者に帰国命令を出している。プロ野球でもハワイ出身の日系人たちが活躍しており、彼らは帰国か、残留かの選択を迫られた。オフに開催された東西対抗戦の翌日に、日米開戦。翌42年から選手の応召が増え、用具なども粗悪に。娯楽に対する風当たりも強くなり、その翌43年には、万歳三唱をしてから試合を始めるなど、プロ野球は体制への協力姿勢を打ち出して存続を図り、ユニフォームはカーキ色に統一され、帽子は戦闘帽となる。だが、主力選手も次々に兵役へ。オフには大和、西鉄(戦後の西鉄ライオンズとは別のチーム)の2球団が解散を余儀なくされた。

 そして迎えたのが44年だった。6球団で始まったシーズンだったが、応召による極度の戦力不足で1人の選手に対する負荷が高まる。阪神ではハワイ出身で残留を選んだ若林忠志が36歳ながら連投に次ぐ連投。巨人では戦後、シーズン中に病死して永久欠番の第1号となる黒沢俊夫が打線を引っ張った。だが、タイガース(阪神)の結成に参加して投打の主力となった景浦将、奇抜な(現在では常識的な)一塁守備でイーグルス(黒鷲)を沸かせた中河美芳、川上とともに巨人へ入団して闘志あふれるプレーで司令塔を務めた吉原正喜ら、かつての主力たちの悲報が次々に舞い込む。

 リーグ戦も8月には打ち切られ、9月の「日本野球総進軍野球大会」は1球団の単独では試合を行えず、2球団を1チームに再編成して決行したが、11月、ついに「参加球団の総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時停止することを決定」と発表された。つまり、翌45年からのプロ野球の休止だ。ただ、今から振り返るため「休止」と言えるが、当時は、先の見えない暗澹たる思いに覆われていたことは想像に難くない。球界の関係者だけでなく、国民一人ひとりも同様だっただろう。

終戦、そして再興へ


 44年12月、日米野球で活躍してプロ野球が開始する機運を高め、巨人のエースとして活躍した沢村栄治が戦死。翌45年1月には西宮球場と甲子園球場で開催された試合のポスターは残っているが、この4日間の試合について公式記録は残っていない。名選手の悲報は続いた。タイガースで沢村と名勝負を繰り広げた同郷の西村幸生が4月にフィリピンで戦死、41年に中日へ入団した石丸進一は5月に22歳で特攻に散った。そして8月15日、終戦。戦火に散った選手たちを慰霊すべく81年に建立された鎮魂の碑には、69人の名が刻み込まれている。

 多くの選手を失ったプロ野球だったが、いち早く再興を試みた。それこそが戦死した選手たちへの慰霊だったのだろう。10月23日には関西の4球団が大阪で会合を持ち、11月6日と7日には東京に6球団の代表が集まって、戦後初の理事会が開かれる。GHQに接収されていた神宮球場の使用許可も下り、22日から東西対抗戦が開催されることが決まった。第1戦は雨天で中止となったが、翌23日の第2戦、約1年ぶりに神宮でプロ野球が復活。観客は5878人を数えたという。

 時代も違う。状況も異なる。ただ、そう切り分けてしまうのは、想像力を想像する前に放棄する姿勢にも見える。先人たちの辛苦を思うと、彼らの不屈は、彼らからの小さな声援にも聞こえてくる。それは、現在のプロ野球にだけでなく、我々にも送られているはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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