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プロ野球20世紀・不屈の物語

オリックスの意地が凝縮された小林宏の14球/プロ野球20世紀・不屈の物語【1995年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

被災した神戸からの快進撃


日本シリーズで力投するオリックス小林宏


 1995年1月。関西地方を阪神・淡路大震災が襲う。甚大な被害を受けた神戸に本拠地を置いていたのが、オリックス・ブルーウェーブだった。選手をはじめ、球団関係者の多くも被災者。周囲は「今年のオリックスは野球どころではない」と思い、神戸の被害を見た関係者も「今年はペナントレースに出てはいけない」と感じたという。確かに、プロ野球は娯楽であり、ひとたび大きな災害が起きれば、娯楽は後回しになる。実際、それどころではない場合もあった。日常生活もままならない人が多くいて、そして気の遠くなるような忍耐を強いられる。それでも、そんな耐える時間の長い、短いこそあれ、時間が経てば事態は徐々に落ち着き、人々の心にも余裕が戻ってくるのだ。そのとき、娯楽は人々の心に元気や勇気を生み出す。プロ野球も、そんな娯楽の筆頭といえるだろう。

 この95年、オリックスの選手たちも、その使命を背負い、ペナントレース開幕から参戦。「がんばろうKOBE」の合言葉をユニフォームの袖に縫い付けて、順調に勝ち進んだ。6月には首位に立ち、後半戦は黄金時代の西武を寄せ付けず。7月22日には早くもマジックが点灯。9月中旬に足踏みして地元ファンの前での胴上げはかなわなかったが、19日の西武戦(西武)でチームが阪急からオリックスとなって、そしてブレーブスからブルーウェーブとなって初の優勝を決めた。仰木彬監督を胴上げするナインは涙を浮かべ、「これで少しは被災者の方に勇気づけができた」と笑顔を見せる。94年にプロ野球で初めてシーズン200安打を突破したイチローが2年連続で首位打者、そして打点王、盗塁王にも輝いた。

 日本シリーズの相手はヤクルト野村克也監督の“ID野球”で92年からセ・リーグ連覇、93年は日本一に。94年は失速したが、95年はオリックスと同様、開幕から安定して勝ち進んで優勝を決めていた。

 そして日本シリーズ。ヤクルトは第1戦(GS神戸)から徹底してイチローを封じ込める。オリックスはクローザーの平井正史が苦しんだこともあって、本拠地で連敗を喫すると、敵地の神宮球場へ移って3連敗に。早くも王手をかけられて迎えた第4戦(神宮)、オリックスも意地を見せる。試合はヤクルト先発の川崎憲次郎とオリックス先発の長谷川滋利による投手戦に。だが、5回裏にヤクルトが1点を先制。それでもオリックスは7回裏からリリーフした鈴木平も好投して、打線の援護を待つ。そして9回表、先頭の小川博文がソロ本塁打を放って、ついに同点。試合は延長戦に突入する。

一打サヨナラの場面で真っ向勝負


日本シリーズ終了後、健闘をたたえ合う小林とオマリー


 79年の日本シリーズ、いわゆる“江夏の21球”については紹介した。これは1イニングに投じた21球のドラマだ。この95年の日本シリーズでは、1人の投手と1人の打者、1対1のドラマが待っていた。

 オリックスのマウンドには、延長戦に入って小林宏が立っていた。10回裏は三者凡退に抑えるも、11回裏、一死から四球、左前打で一打サヨナラのピンチを招く。打席には四番のオマリー。大学3年まで軟式でプレー、しかも遊撃手だったプロ3年目の右腕は、セ・リーグMVPのオマリーに真っ向勝負を挑んだ。初球こそスライダーだったが、2球目から5球目まで、内角への速球。6球目は外角高めに外れたが、7球目も内角へ。これをオマリーは強振して、あわやサヨナラ本塁打というファウル。小林も9球目から内角攻めを再開、12球目も豪快なファウルとなる。13球目は、この勝負2球目のスライダーがボールとなって、ようやくフルカウントに。そして14球目、やや沈む137キロのストレートは内角低めへのボール球だったが、オマリーは空振り三振。ふだんはおとなしい小林がほえた。

 続く12回表、先頭のD・Jがソロを放ち、ようやくオリックスが1勝。ただ、第5戦に敗れて日本一はならなかった。だが、翌96年もオリックスの勢いは変わらず。ペナントレース、日本シリーズともに地元での胴上げを果たしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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