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プロ野球20世紀・不屈の物語

関根潤三の哲学「いい加減が、ちょうどいい」/プロ野球20世紀・不屈の物語【1950〜89年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「こんなにいい商売はない」



 困難に立ち向かっていくとき、ついつい人は眉間にしわを寄せ、歯を食いしばる。あるべき不屈の姿といえよう。特にプロ野球選手であれば、誰の目にも分かりやすく、共感を得やすい姿でもある。

 その点、関根潤三という選手は、異彩を放っていた。1950年、2リーグ分立で参加した近鉄へ。日大三中、法大の恩師だった藤田省三監督に誘われ、「藤田さんに入れと言われて、ハイと」(関根)入団した。法大では速球派。3年の秋、48年には戦後初の優勝に貢献した左腕だったが、プロを甘く見ていたこともあって、いきなり肩を痛める。その上、当時の近鉄は弱かった。前年の49年までは1リーグ8球団だったものが、2リーグ分立でセ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団の計15球団と、ほぼ倍増。各球団は既存の球団からの「引き抜き自粛の申し合わせ」を行ったが、実際は守られることなく、見かねたGHQのマーカット少将が声明文を出すほどに加熱。これを唯一、遵守したのが近鉄だった。

 以降、4年連続で最下位。20世紀の終盤は“いてまえ打線”が暴れまわった近鉄だが、当時は特に打線が苦しく、阪神から容赦なく主力を引き抜き“ミサイル打線”を形成して初代パ・リーグ王者となった毎日(現在のロッテ)とは対照的に、散発“ピストル打線”は迫力を欠いた。そんな近鉄で孤軍奮闘した左腕は、リズミカルで打者の狙いをはぐらかす投球を持ち味にして、54年には16勝12敗と初の勝ち越し。近鉄も8チーム中4位と浮上した。だが、57年に自信をもって投じたストレートを打たれると投手を断念。打者へ転向した。

 一種の挫折だろう。だが、このときのことを、のちに振り返って、

「バッターは7割、失敗してもいい。こんないい商売ないですよ」

 と言ってのけて、笑った。ただ、プロを甘く見ていた1年目とは違う。あらためて打撃と向き合い、ルーティンにもこだわった。ネクストから出るとき、ヘルメットにサッと触れ、打席のラインをまたぐときにはヘルメットを直し、構えたらベルトをつまみながら一歩、左足で砂をならす。“眉間のしわ”だったのかもしれない。だが、あるときから発想を一転させたという。当時の写真を見ても、フォームに力感が見えないことに驚かされる。

「前から来た球を打てばいい。いい加減が、ちょうどいいんです」(関根)

 近鉄では単身赴任の形で、夫人のいる関東の球団へ移籍するか、野球をやめて家族と一緒に暮らすか、ひそかに悩むことも多かったという。最後は65年に巨人へ移籍して1年だけプレー。優勝、日本一を経験して、現役を引退した。

弟子たちによる笑顔の回顧


 関根潤三という指導者も、冒頭の点で異色であり、やはり優勝も遠かった。広島で打撃コーチを務めたが、当時の広島は黄金時代の前夜。巨人のヘッドコーチになるとチーム初の最下位に沈み、翌年は二軍で指揮を執る。80年代に監督として率いた大洋とヤクルトも、下位の常連だった。ただ、若手の長所を引き出す指導には定評がある。強くないチームだったが、若い選手たちは明るかった。

 広島で若手時代に指導を受け、最終的に連続試合出場で世界の頂点に立った衣笠祥雄は「それぞれの個性に合わせては当然ですが、打撃、練習、準備の仕方、すべての基本を徹底的に教わりました。1年だけでしたが、もっと教えていただいていたら、もっといい選手になっていたんじゃないかな」と笑って振り返る。ヤクルトで薫陶を受けた池山隆寛も「三振しても怒られるどころか、『下を向いて帰ってくるな。堂々と帰ってこい』って。でも一度、怒られたことがあったんです。ただ『バ〜カ』って。あとあと、『バ〜カ』の意味を考えると、自分で反省するというか、すごく効くんです」、同じく広沢克己も「殴ったり罰を与えたりはなかった。でも『バ〜カ』って。きついんだよな、あれ」と笑う。

 果敢に難局と向き合う姿は勇ましい。ただ、そんな場面を軽やかに切り抜けていく姿も魅力的だ。低迷チームの主力選手、低迷チームの指導者。ただ、不屈の姿は見せず、笑顔の印象ばかりを残す。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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