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プロ野球20世紀・不屈の物語

フライヤーズからファイターズへ。日本ハム過渡期の紆余曲折と初優勝/プロ野球20世紀・不屈の物語【1973〜81年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

日拓の1年間


日拓の7色のユニフォーム


 21世紀に入って北海道へ移転、そして定着した日本ハム。プロ野球が戦争で休止に追い込まれたことは紹介したが、戦後、復活の号砲となったセネタースが起源だ。プロ野球の創設に参加した東京セネタースとは別のチームだが、その初代監督だった横沢三郎が中心となって結成され、加盟が承認されたのは1945年11月6日のことだという。47年に東急フライヤーズとなり、48年の1年だけ大映が参加して急映フライヤーズに。54年には経営が東映に移り、東映フライヤーズとなる。フランチャイズ制が導入されると、53年シーズン終盤から東京の駒沢球場を本拠地に。周辺にはサトイモや麦などの畑が多く、風の強い日には土埃が舞う球場を舞台に、勝てずとも荒々しいプレーで鳴らした男たちは”駒沢の暴れん坊”と呼ばれた。

 だが、東京オリンピックのため土地が返還され、球場も解体。神宮を経て64年からは巨人も使用している後楽園球場を本拠地とした。しかし、巨人を除く11球団は赤字が当たり前だった時代。成績も低迷することが多く、映画産業も斜陽となり、72年オフ、ついに東映が球団を手放す。経営を引き受けたのは日拓ホーム。不動産関係の会社で、当時の野球ファンは誰も知らないような会社ではあったが、そんな“新球団”の西村昭孝オーナーは「大好きな野球界の未来に貢献したい」と会見で力強く語った。結果的には1年で経営を手放すことのだが、その1年間は、なかなかにインパクトを残している。迎えた翌73年はパ・リーグで前後期制が始まったシーズン。まさに時代の過渡期でもあった。前期は5位だったが、続く後期は旋風を巻き起こす。

 まずはユニフォーム。西村オーナーの発案で「ファンサービスと敵チームを攪乱するため」に7種類のカラフルなユニフォームを採用して話題を集める。どのチームの選手もコワモテばかりだった時代でもあるが、張本勲大杉勝男ら元“暴れん坊”たちのポップなユニフォーム姿というギャップには、強烈なインパクトがあった。そんな作戦が成功したかは疑問符が残るところだが、チームのカンフル剤にはなったのか、結果は後期3位と浮上。だが、西村オーナーは10月にロッテとの合併をパ・リーグに提案、猛反発を受けて頓挫する。一説には5球団ではパ・リーグの維持が難しくなるため、これを1リーグ制へ転換する布石にしようとしていた、とも言われる。ただ、結果的には球団売却への“布石”だった。この後を引き継いだのが日本ハム。ニックネームもファイターズとして再出発した。

熱烈ファンサービスを継続?


81年、大沢啓二監督の下、19年ぶりのリーグ優勝


「勝率5割」「シーズン観客動員100万人」を打ち出した日本ハム。ただ、経営が変わったことで、一気に成績が向上し、観客が集まるわけでもない。日本ハム元年は前後期とも最下位。その後もBクラスに沈み続けた。張本らを次々に放出して“東映カラー”の払拭を図った日本ハムだったが、踏襲したわけでもないだろうが、日拓の独特なファンサービス路線は継続。77年には少年ファンの獲得を目指して「少年ファイターズの会」を充実させ、「人工芝で遊ぶ会」で少年たちに後楽園球場を開放する。その人工芝に赤じゅうたんを敷き詰めて、大観衆に見守られながらの「球場結婚式」も話題を呼んだ。

 チームの快進撃もあって8月末には観客動員100万人を突破。翌78年には脱線もあり、球宴を前にファンクラブの会員に投票用紙を5枚ずつ配布したことが組織票となり、8ポジションに日本ハムの選手が並ぶ“事件”にも発展した。このときは、まだ実績の乏しかった三塁の古屋英夫と、小技に長けた名脇役タイプだった遊撃の菅野光夫が出場を辞退させられている。ただ、そんな紆余曲折を経ながらも、着実にチームは上向いていった。

 続く79年にシーズン通算3位でBクラス脱出に成功、以降2年連続3位に。そして日本ハム8年目の81年、前期は4位で終えたものの、後期優勝を果たすと、激戦となったロッテとのプレーオフを制して、悲願のパ・リーグ優勝。19年ぶりのリーグ優勝は、もちろん日本ハムとなっての初優勝でもあった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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