一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 新聞に出た、自分の名前に涙
今回は『1971年4月19日号』。定価は90円。
今回は、かなり地味な話だ。
ドラフト外入団選手7人の特集があった。「その後」も交え、紹介していく。
一人目は阪急の
児玉好弘(25歳)。
本格的に投手を始めたのは、高校を出て日本軽金属入社してから。すぐ頭角を現し、65年には東京からドラフト15位で指名されたが、故障もあって辞退。その後は、会社の反対もあってプロ入りしなかった。
ただ、社会人の中でも高卒、大卒の社内での扱いの仕事を痛感。「年も年だし、このあたりで一つやったるか」とドラフト外で阪急に入団した。
これを「いいつらがまえをしている」と気に入ったのが、
西本幸雄監督。オープン戦から起用し、結果も残した。さらに
阪神・
田淵幸一に死球を出した際は、
「内角のシュートだったが、あの球は避けてもらわなくては困ります」
と語って、周囲を驚かせた。
プロでは、ほぼリリーフで139試合に登板し、22勝13敗。
南海に入ったのが東京電電の19歳の左腕、柚木秀夫。まったく実績はなかったが、
野村克也監督は「掘り出しものや」と喜んでいた。
プロでは、74年南海を戦力外になった後、巨人入団。一軍登板はなかったが、長く打撃投手としてチームを支えた。
樫出三郎。法大からデュプロに進んでいた投手で大学時代のチームメート、田淵幸一の口利きもあって阪神入団。
プロでは、登板なし。
辻正孝。習志野高では
谷沢健一の1年後輩だったが、すぐ転校し、修徳高で甲子園出場。このとき
中日から5位指名されたが、周囲の反対もあっていすゞ自動車へ。
その後、グローバルリーグができた際、
森徹に誘われ、入団。四番を打ち、チーム第1号本塁打も放っている。
しかしベネズエラの試合中、打球を追っていたところ散水用の蛇口につまずき、左肩を骨折。帰国後、1年は何もしていなかったというが、ケガが癒えたこともあり、中日のテストを受け、入団した。
プロでは一軍出場なし。
北村哲治。岐阜県の繊維会社・松久で準硬式をやっていた左腕。中日にテスト入団した。
プロでは一軍出場なし。
渡辺博俊。日大の投手で西鉄のテストを受けた際、「僕は稲尾(和久)さん(監督)に直々にみてほしい。それでダメならあきらめます」とコーチたちに堂々言い放った。
入団の動機の一つに日大の1年先輩・
佐藤道郎(南海)の活躍もあったらしい。
「佐藤さんより僕のほうが球が速かった。しかも佐藤さんより僕のほうが練習量が少なかった。もっと練習を積めば、もっと僕はやれると思います」
佐藤はもともとさほど球が速いタイプではない。
球団は、渡辺に
永易将之の13を与えた。
73年に阪神に移籍し、ここで6試合登板。引退後はパキスタンやタイの代表監督を務めたという。
池辺忠則。西鉄・稲尾監督が、ブルペン捕手要員として故郷別府の野球関係者に紹介してもらった。
当時は選手契約した若手やベテランにブルペン捕手をやってもらっていた。
ただ、池辺自身は詳しいことを聞いていなかったようだ。プロになれたという喜びと、当初は“壁”でも仕方がないが、いつか抜け出そうと思っていた。
こんなこともあった。
キャンプ中、故障で休んだ際、翌日の新聞の片隅にケガ人一覧として自分の名前が出たという。
それを見た池辺が宿舎の女中さんに、
「これを見てください。僕の名前が」
と感激の様子で言い、目には涙が浮かんでいたという。
ただ、練習ではひたすら球を受けるだけ。打撃は練習もさせてもらえない。
練習中、「ピッチングの相手ばかりじゃいやだ。僕は外野もできるんだ」と、コーチにごねたこともあったという。
一軍出場はなく、引退。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM