85年9月にアキレス腱を断裂して戦線離脱となった山本氏(左)。だが優勝は確信していた。リーグ優勝のときは私服でビールかけに参加。福間納と抱き合った
野球解説者を退いてから数年が経過している。「もう
阪神のことは見ていないよ」と語るのは1970年代から90年にかけて阪神で抑えの切り札として活躍した
山本和行氏。そんな山本氏は1985年のリーグ優勝を、そのシーズンの6月の時点でほぼ確信していたという。その時期は前年度優勝の
広島、
巨人で首位争いしていた時期で、まだまだどのチームが優位に立つのか分からない状況でもあった。
「前年に、打線がある程度固定されたからね。その流れで85年に入ったから、この打線ならいけると思っていましたよ。そのとおり85年は、打線が機能し、先発が崩れてもその後中継ぎが何とか抑えれば、逆転して勝つ試合が多くあったからね」
85年の一番打者・
真弓明信は、84年の開幕時は三番打者で、一番に起用され始めたのは7月に入ってから。また6月ごろから四番・
掛布雅之、五番・バース、六番・
岡田彰布という並びが作られた。この流れで85年、
吉田義男監督が三番・バース、四番・掛布、五番・岡田という形が作り上げた。この並びの打線に山本氏は自信を持っていたのだ。
「84年にはある程度レギュラーも固まっていて、85年につながった。やはりレギュラーが固定されないとチームは強くならない。昨年までの阪神は若手を多く起用しているけど、レギュラーが決まらない。それではどうしてもエラーが多く出てしまう。これでは投手がきつくなるよ」
山本氏いわく、当時の遊撃手のレギュラー、
平田勝男(現阪神二軍監督)は守備範囲が広いほうではなかったというが「自分の捕れる打球は絶対にエラーしなかった。それだけでも投手としては計算ができるし、安心して投げられる」。
今季阪神が優勝するにはここが一番の課題だという。「試合経験のある若手は多いのはいいことですが、やはりある程度固定したメンバーで野手は戦わないと優勝は難しい」と語る山本氏。「もし開幕してから、一気にレギュラーを固定できたら」が山本氏の優勝の条件。優勝の経験からくるレジェンドの重みのある言葉だ。
写真=BBM