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プロ野球20世紀・不屈の物語

「タイガースは人生だった」村山実の涙と笑顔/プロ野球20世紀・不屈の物語【1959〜72年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

天覧試合までの伏線



 巨人と阪神のライバル対決では、1980年代に繰り広げられた巨人の江川卓、阪神の掛布雅之の、エースと四番打者の名勝負を思い出すファンは多いだろう。2人の真っ向勝負は明るい印象を残す。その要因には、スポーツを扱った漫画も『タッチ』や『キャプテン翼』だったような時代性もあるだろう。テレビでの観戦にも支障がないほどナイターも明るく照らされていた。江川と掛布のキャラクターによる部分も大きい気がする。

 59年の天覧試合で巨人の長嶋茂雄からサヨナラ本塁打を浴びた村山実については紹介した。以降、村山は長嶋をライバル視して多くの名勝負を繰り広げたが、そこからは江川と掛布のような明るさ、さわやかさは感じにくい。太陽にもたとえられるほどの別格の明るさを放った長嶋の一方で、あるいは、そんな長嶋が相手だからこそ、村山の影は際立ったのかもしれない。ほぼ同時代の漫画には『巨人の星』があった。時代の要求も、こうした“スポ根”的なものだったのだろう。

 村山と長嶋のライバル物語は天覧試合から本格化するのだが、村山には伏線があった。兵庫県の出身。住友工高3年の春に近畿大会で注目される。夏の甲子園には届かず。知り合いの紹介で立大のセレクションを受けようとしたが、関係者に「推薦できん。背が低過ぎるんや」と断られた。その立大には長嶋がいた。1学年の下になる村山は関大へ進み、その「背が低すぎる」体を目いっぱい使った投球で頭角を現していく。2年の春にはエースとして日本一に。このころから“ザトペック投法”と言われ始める。ザトペックとは52年、ヘルシンキ五輪の5000メートル、1万メートル、マラソンの金メダリスト。だが、いつも苦痛に満ちた表情で走っていた。村山の投球は、そんなザトペックを彷彿とさせたのだ。

 プロのスカウトも全12球団からあいさつに来た。中でも熱心だったのが巨人。だが、右肩を痛めると、水が引くようにスカウトが離れていく。巨人に治療法を相談しても相手にされず。唯一、親身になってくれたのが関大の先輩で、阪神の球団代表だった田中義一だった。4年になって手術を受けて復活。ふたたびスカウト攻勢も始まり、巨人は最高額の2000万円を提示してきたという。提示は巨人の半額にも届かない800万円だったが、入団したのは阪神だった。

 その1年目、59年に待ち受けていたのが運命の天覧試合。物語が序章から本編へ突入した瞬間だった。その天覧試合ではサヨナラ弾を許したものの、59年の対戦成績は26打席で3安打のみ。ただ、その3安打すべてが本塁打と、なんともドラマチックな数字が残る。

「ワシは1球1球、命を懸けとるんや」


 新人王こそ逃したが、防御率1.19で最優秀防御率に輝いた1年目の村山だったが、その後は故障や内臓疾患、そして復活を振り返すことになる。62年には防御率1.20で2度目の戴冠、リーグ優勝の立役者に。翌63年には、腱鞘炎での離脱から復帰すると、球審の判定に猛抗議。退場を命じられると、さらに抗議を続け、号泣する。「ワシは1球1球、命を懸けとるんや。あんた(球審)も命を懸けて判定してくれ」……いわゆる“涙の抗議”。これも巨人戦だった。Vイヤーの翌64年には22勝。続く65年から25勝、24勝で2年連続の最多勝に。66年には長嶋から節目の通算1500奪三振。長嶋もヘルメットが飛ぶ豪快な空振りで、これに応えた。

 だが、67年からは相次ぐ故障、さらに胸部疾患と、状態が悪化していく。70年には監督を兼ねて、防御率0.98で3度目の最優秀防御率も、これが最後の輝きになった。最後は阪神の“お家芸”球団内のトラブルもあって、精彩を失っていく。最後の巨人戦では王貞治、そして長嶋の“ON砲”に連続アーチを架けられた。その72年に現役引退。翌73年のオープン戦が引退試合となる。やはり巨人戦だったが、長嶋は体調を崩して欠場。ただ、この日の目玉は長嶋との対決ではなかった。

 一時は確執もあり、エースの座を譲った江夏豊らの騎馬に乗って登場。すさまじい悲壮感でファンを沸かせた男のラストシーンは、会心の笑顔だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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