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プロ野球20世紀・不屈の物語

“盟主”で挫折し移籍で成功した3人の右腕/プロ野球20世紀・不屈の物語【1973〜88年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

南海版“野村再生工場”の本格稼働


南海・山内新一


 才能というものは、自分ひとりの力だけで花を咲かせることは難しいものらしい。どんなに美しい花であっても、適切な気候や適切な土壌、適度な水分や肥料などがなければ、花が咲く前に枯れてしまったり、咲いても美しくなかったりするのと同様だろう。根づく場所を間違えてしまうと、本来の美しさで開花するのは至難の業であり、奇跡と言える。

 1980年代、巨人西武の頂上決戦は、しばしば“盟主決戦”と表現された。それまで“球界の盟主”として君臨していた巨人に対し、それを脅かす存在として西武が名乗りを上げた、という構図だ。1973年までV9という空前絶後の連覇を達成した巨人だったが、その後は初の最下位も経験し、当時の圧倒的な強さは影をひそめる。それでも、ほぼ毎年のように優勝を争うなど、強いチームであることには変わらなかった。一方で、79年に埼玉へ移転して生まれ変わった西武は、じわじわと力をつけていき、82年から2年連続で日本一に輝き、そのまま黄金時代へと突入していく。

 そんな巨人と西武。共通しているもののひとつは、巨大戦力であること。投打ともに選手の層は厚く、バックアップのメンバーにもほかのチームならレギュラーを張れるような選手たちが並び、高いポテンシャルがありながらも二軍でくすぶっている選手も少なくなかった。彼らが目指していたものは、巨人あるいは西武で一軍のレギュラーになることだっただろう。投手なら、先発と救援の分業制が定着し始めた時期ではあるものの、やはり一軍の先発ローテーションだったのではないか。一軍で活躍しないまま他チームへ移籍していくことは、ある種の挫折だったに違いない。

南海・松原明夫


 巨人で芽が出なかった2人の右腕は南海へ移籍したのはV9のラストイヤーとなる73年だった。1人は山内新一だ。3年目の70年、わずかに規定投球回には届かなかったが防御率1.78の好投を見せたが、その後はヒジ痛に苦しみ、一軍で登板しても1度でも打たれたら二軍へ落されるプレッシャーに委縮、突如として制球が乱れることも少なくなかった。もう1人は松原明夫。快速球とスタミナが武器だったが、一軍では勝ち星なく、二軍でもピンチで打たれることが続いて、いつしか「気が弱い」というレッテルを貼られていた。そして、富田勝との2対1のトレードで南海へ。このとき南海の監督だったのが野村克也だ。四番打者だけでなく、正捕手も兼ねた野村によって、2人は開花へと導かれていく。

西武から中日のV戦士に



 巨人の5年間で14勝しか挙げられなかった山内は、移籍1年目の73年に20勝を挙げる大ブレーク、4年間でゼロ勝だった松原はプロ初勝利を含む7勝で、ともに優勝に貢献した。松原は77年に広島へ移籍してからが満開だったが、山内はエースとして低迷が深まっていく南海を83年まで支えていくことになる。

 時は流れ、80年代の西武も、巨人と似た構造となっていた。そんな西武から中日へ移籍したことで、一気にタイトルホルダーへと駆け上がったのが小野和幸だ。二軍では1年目の81年からタイトルの常連だったが、なかなか一軍には定着できず。ただ、これは層の厚さもさることながら、小野が一軍でも先発を希望したためで、山内らとは事情は少し異なる。それでも徐々に一軍での登板機会を増やして、86年には念願の先発にも定着、球宴にも出場したものの、平野謙とのトレードで88年に中日へ。悔しさもあったというが、これで環境が整った。

「格は向こう(平野)が上。それなのに1対1のトレードというから、分かりました、と。交換相手も自分の価値ですからね」(小野)と受け入れ、移籍1年目から負けない投球で勝ち進む。18勝4敗で初タイトルの最多勝、勝率.818もリーグトップ。中日にはクローザー転向2年目の郭源治もいて、後半戦は1度も首位を譲らない快進撃で、そのままリーグ優勝を果たした。ただ、小野は翌89年にフォームを崩して急失速。ブレーク以前は山内や松原よりも順調といえる小野だったが、長く咲き続けることはできなかった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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