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プロ野球20世紀・不屈の物語

写真のない快挙の主役と1年だけの西日本パイレーツ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1950年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

主役は青函連絡船でやってきた?


完全試合達成で後日、表彰された巨人・藤本


 不屈の物語というよりも、不運の物語といえるだろうか。この物語の主役となる人物にとってだけでなく、プロ野球の歴史にとっても、不運な快挙だった。その舞台は東北、本州における北の玄関口でもある青森にある。青森市営球場。20世紀の最後、2000年に合浦公園スタジアムとしてリニューアルされたが、その快挙は、そこから半世紀ほどさかのぼる。

 2リーグ制が始まって間もない、1950年6月28日のことだ。当時から北海道は函館への玄関口という機能は変わらないものの、間違っても津軽海峡の地下に横たわる海底トンネルはなく、ましてや新幹線など通っていない。東京から行くのであれば、上野を出る夜行列車に乗って、青森で青函連絡船に乗り継ぐコースであり、その旅情あふれる光景は演歌の題材にもなった。この物語の主役は、このとき逆のコース、青函連絡船で青森へと向かっている。現在も津軽海峡を結ぶフェリーには夜行便があるが、北海道での遠征を終えた巨人の藤本英雄は、青森での翌28日の試合で先発のマウンドには多田文久三が立つ予定だったことで、明け方まで麻雀を楽しんでいた。多田は41年に巨人へ入団、戦後は正捕手を務めたが、1年で投手に戻った経歴を持つ頼れる男だ。だが、突然の腹痛に襲われて、登板を回避。先発のマウンドには、この寝不足の右腕が立たざるを得なくなった。

「調子はよくなかった。いきなり先頭打者にボール3球、続けちゃったんです。そこから気持ちを切り替えて三振。そこで、四球でもいいや、と思ったら完全試合はなかったんだから不思議なものですね。何度も危ない場面があったけど、バックに助けてもらいました」(藤本)

 プロ野球の歴史で完全試合は15度。打者の三冠王のように1人で2度ということはなく、達成したのも15人だ。その第1号が生まれたのが、この青森市営球場だった。ここで、当時に想像の羽を伸ばしていただきたい。カメラはあってもデジタルカメラはない。携帯電話やスマートフォンにカメラがついている時代ではないどころか、携帯電話すらない。交通インフラは前述のとおりだ。残念なことに、この遠征に帯同したカメラマンの人数はゼロ。つまり、プロ野球で初めての快挙は、1枚の写真も残されていないのだ。残っているのは試合の記録と、その試合に立ち会った人たちの記憶、そして後日の表彰式で笑顔を見せる藤本の写真のみ。わずかな外出にも油断できない今日この頃だが、つくづく油断は禁物だ。

はるばる九州から快挙を献上した西日本


 自己顕示欲むきだしの人とはかかわりたくないものだが、こうした欲求は少なからず誰しもが持っているものだろう。藤本も残念だったと思うのだが、そんな小さなことを気にするようなタイプでもない。戦中の42年に巨人へ入団、44年は史上最年少25歳で兼任監督に。戦後も兼任監督としてスタートを切るも、球団の粗忽な対応に激怒して退団、中日で1年だけプレーした不屈の男だ。実質的にコーチ専任だった55年、完全試合のときと同様、いきなり先発に指名され、「どうでもいいと思っていた」(藤本)通算200勝に到達して、現役を引退している。

 一方、完全試合を食らった姿の写真が残っていないという意味では幸運ともいえるのが相手チームの西日本パイレーツだ。現在の西武の起源となるチームの1つで、この50年に九州は福岡を拠点に誕生した。当時の交通を考えれば、青森での試合には疲労困憊で臨んでいたのかもしれない。最終的にはセ・リーグ8チーム中6位に終わり、翌51年に同じ福岡にあるパ・リーグの西鉄クリッパースと合併して消滅、西鉄ライオンズとなった。

 2020年の夏、ねぶた祭りも中止になってしまった。いま、外出は自粛だ。これを読んで「ゴールデンウィークに行ってみよう」とならないでいただきたいのだが、完全試合の碑だけでなく、近くには煮干し薫る中華そばの名店もある。世の中が落ち着いて来たら、夏も涼しい、あるいは冬の厳しい青森で、目を閉じて耳を澄ましてみるのもいい。写真のない試合の球音が聞こえてくるかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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