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コシノヒロコさんの赤の近鉄ユニフォームはなぜ3年で消えたのか

 

岡本太郎と千葉茂


5月11日号表紙



 今週の「週刊ベースボール」は休日の関係で4月28日(火)発売。特集は「ユニフォーム大図鑑」だ。
 その中で、1997年の近鉄のユニフォームを起点に、ネーミングライツについて書いたが、ここでは前半の「1997年近鉄」を抜粋し、少し膨らませながら再録する。

 銀座の路上ですれ違った際、互いに「千葉さんか」「岡本さんか」とだけ言い、しばし見つめ合ったのが出会い。

 そのまま2人は親友になったという話を先輩記者から聞いた。
1938年に入団し、川上哲治と並び称された巨人のスーパースター、猛牛・千葉茂と、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎画伯だ。
 ともに本業だけでなく、独特の個性と言語力でも有名だった天才である。

 岡本は千葉が1959年に近鉄監督となり、球団のニックネームがパールスからバファロー(単数)に変わった際、有名な猛牛マークをデザインし、プレゼントした。
 ユニフォームの袖や帽子マークにも使われ、長く近鉄ファンに愛されたマークは、極端にデフォルメしつつ、無駄を削ぎ落したシンプルなもので、素人目にも傑作であることが分かる。

 世界的ファッションデザイナーの“イッセー・ミヤケ”こと、三宅一生さんが、88年オフに誕生した福岡ダイエーホークスのユニフォームを担当したこともあった。
 胸のネームのあしらいなどが斬新だったが、むしろ三宅さんらしい奔放さが出たのは、グラウンドコート背中のどでかい鷹マークと、鷹の顔が描かれた別名「ガッチャマンヘルメット」だった。
 さすがのトップデザイナーでも、ユニフォームという制約のあるものでは、そうそう革新的なことはできないのだなと思った記憶がある。

 そのあたりの葛藤は、97年に近鉄が本拠地を藤井寺球場から大阪ドームに移転する際、新ユニフォームのデザインを担当したコシノヒロコさんのインタビューにも見られる。
「選手は保守的で、斬新なものを敬遠し、少しだけメジャー・リーグのイメージが入ったオーソドックスなユニフォームならば、安心して着られるというんですよ。
 私はね、本当はもっと独自の日本らしいデザインを重視したものを作りたかったの」
 コシノさんは白のホームと紺(ターコイズブルー)と赤の2着のビジターをデザインしたが、最初、ビジターは1種類のみの予定だったという。

 その1つの基本色にコシノさんは赤を選んだ。
 たくさんの近鉄ファンに「バファローズを色で例えると」と聞き、「十人が十人とも赤と答えたから」と言っている。
 会社側も賛同したが、コシノさんが当時の佐々木恭介監督に聞くと、
「社会人の東芝のユニフォームが赤で、そのイメージが強くってノンプロみたいだ。プロ野球選手はみんな赤を着たがらない」
 と言われたという。
 その後、フロントと現場が互いに譲らず、なかなか結論が出なかった。
 コシノさんは仕方なく、サンプルとして赤と紺の2種類をつくることになった。
 
 ただ、この赤が曲者だった。
 コシノさんによれば、赤は
「少なく見たって数千色がある」
 そうだ。
 その中から厳選に厳選を重ねた赤を、藤井寺のナイターにライトに当てて驚いた。
「何と赤が茶色になっちゃったのよ!」
 ナイター照明は黄色が強かったり、赤みが強かったりと、球場によって微妙に違う。さらに言えば、芝の照り返しもあり、試合の写真を見ていても、昼間の太陽光の下とは、まったく違う色になっていることが多い。

 そこからコシノさんは、ナイター照明を当てても、あるいはブラウン管(当時)を通しても統一できる赤を徹底的に探して見つけ出し、妥協案でもあるが、ビジターはデーゲーム用が紺、ナイター用が赤という設定になった。

 ただ、コシノさんがこだわり抜いた赤は、わずか3年で消えた。やはり選手側から不評だったからと言われる。白と紺は継続して使用されたが、唐突に途切れたのが2004年オフ、近鉄がオリックスに吸収合併され、事実上消滅した際だった。

 カッコいいユニフォーム、いいデザイン……。
 いろいろな意見はあるだろう。多少、身も蓋もない気がするが、結論もまた、コシノさんのインタビューの言葉にあると思う。
「強くて勝ってさえいれば、かっこ良く見えてくるんですよね」
                     (文・井口英規)
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