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プロ野球20世紀・不屈の物語

絶頂にいた若き山田久志の呆然自失/プロ野球20世紀・不屈の物語【1971年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

運命の1球


1971年の阪急・山田久志


「野球をプロで20年もやっていて、一番ショックな出来事。あれ以上はない。9回まで1対0に抑えて、ヒットは2本、四球はない。ふつう、負けないよね。でも、9回に一死を簡単に取ってから、なぜか柴田(勲)さんに四球。そこから二死にして、長嶋(茂雄)さんが(中前打で塁に)出てから、王(貞治)さんがサヨナラホームラン。何が起きたのか分からんかった。サヨナラ負けをしたという事実は分かりますよ。でも、なんでそうなったのかって。ベンチにも帰れない。ヒザに力が入らなくて、立ち上がれないのよ。あとで聞いたら西本(幸雄監督)さんが迎えに来てくれてるんだよね。それも分かってない。試合の後、マスコミの人に何をしゃべったかも覚えてない」

 このように1971年の日本シリーズを振り返るのは、阪急の山田久志だ。秋田県の出身。能代高の2年までは三塁手だったが、2年の夏、秋田県大会で自らの悪送球でサヨナラ負けを喫し、退部を考える。だが、太田久監督から「ピッチャーで悔しさを晴らしてみろ」と言われ、投手として再起を懸けた。最初はオーバースローだったが、すぐにサイドから投げるように。その後は新日鉄釜石でプレーしていたが、67年のドラフトで西鉄から11位で指名される。このときは家族から「会社に何の恩返しもしてない」と言われ、義理を欠くことを嫌って拒否。翌68年のドラフト1位で阪急から改めて指名され、腰痛の治療を経て翌69年シーズン途中に入団した。

 流れるようなアンダースローからの快速球を武器に、翌70年には早くも頭角を現す。迎えた71年には22勝。防御率2.37で初タイトルとなる最優秀防御率に輝いた。阪急も2年ぶりに王座を奪還。西本監督から「ピッチャーはコントロールや」と言われても、「速ければ打たれませんよ」と言い返すほど、ポップして高めへと伸びていく自らの速球に絶対的な自信を持っていた。

71年、日本シリーズ第3戦で巨人・王にサヨナラ3ランを浴びた


 そんな3年目、実質的には2年目となるサブマリンは、セ・リーグV7を果たし、7年連続の日本一を目指す巨人と、ともに1勝1敗で迎えた日本シリーズ第3戦(後楽園)で対決する。これが日本シリーズ初登板だったが、王、長嶋の“ON砲”を擁する巨人の強力打線を相手に完封ペースの好投。まだ23歳、若き右腕の自信も自負も、絶頂に到達していたことだろう。そんなときに浴びたのが王の鮮やかな逆転サヨナラ3ラン本塁打だった。日本シリーズの逆転サヨナラ本塁打は史上2本目。いつも冷静な王が珍しく喜びを表現しながらダイヤモンドを回る一方、山田はマウンドにうずくまった。

エースに、そして象徴的な存在に


「でもさ、実質2年目で22勝して防御率も1位、しかも日本シリーズに出て、V9時代の巨人を相手に、どんどん投げていける。幸せすぎるよね。だから、お前ちょっと待てよ、いい気になるなよ、ということだったのかもしれない。実際、私の野球人生は、あそこから本当のスタートを切ったと思っている」

 そして、こう山田は続けている。転ぶにしても、ただ転ぶのと、高いところから転がり落ちるのでは、衝撃の大きさは違ってくる。絶頂から転落した若武者は記憶を失うほどの衝撃を受けた。だが、これも若さの特権なのか、立ち直るのも早かった。それだけではない。

「練習だったり試合だったり、日常もだけど、いろいろな取り組みが少しずつ変わった。こういう場面で抑える、こういう試合で勝ち切るピッチャーにならんといかんな、そのためには何をせなあかんのかと考えるようになったね」

 とも語る。速球で押しまくる投球から、制球力を重視し、シンカーなどの変化球も交える投球へとモデルチェンジしていく。黄金時代にあった阪急は世代交代にも成功。そんなチームで、70年代だけで最多勝3度、最優秀防御率2度、76年からは3年連続でMVPに。75年から86年まで12年連続で開幕投手を任されたが、これは当時の世界記録だ。なお、開幕投手としての成績は8勝2敗と、きっちり結果も残している。エースに成長した若者は、やがて阪急の象徴的な存在となっていったが、この続きは機会を改めて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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