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プロ野球20世紀・不屈の物語

南海からダイエーへ、ホークスが経験した悲しみと再生/プロ野球20世紀・不屈の物語【1985〜2000年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

低迷する南海を襲った悲報


 自宅で長い時間を過ごすことで、ついテレビがつけっぱなしになっている、という人も多いのではないだろうか。悲しいニュースが次々と届けられる。気持ちは沈む。悲嘆にくれている場合ではないと自らの心にムチ打つも、そんな簡単に心は立ち直ってくれない。悲報が身近なものであれば、なおさらだ。それでも、今日も明日も生きていかねばならない。人生は格闘だという。今日も明日も闘い続けなければならないのだ。勝てる余力があればいい。勝利を起爆剤に、心を立ち直らせることもできよう。だが、その力が残っていない場合もある。どういうわけか悪いことは続く。それでも、闘いを投げ出すわけにはいかないのだ。

 1985年。新しい年を迎えて間もない1月4日、球界に悲報が走った。現在のソフトバンク、当時の南海で三塁や遊撃を守ってレギュラーとして活躍していた久保寺雄二が帰省中に急死したのだ。ドラフト2位で77年に入団して、偵察メンバーとして一軍で初出場。その後は卓越した器用さを武器にレギュラーの代役として徐々に成長、81年には中堅手としてレギュラーを確保して、83年から正三塁手に。84年に前任の正三塁手だった藤原満の背番号7を継承したばかりだった。まだ26歳。死因は心不全だという。ナインは悲しみに沈んだ。

 それでも、長く低迷を続けていた南海だったが、春先は奮闘する。だが、勝ち進む力は残っていなかった。セ・リーグでは“猛虎フィーバー”の阪神が21年ぶりのリーグ優勝へ突き進んでいく一方で、南海は3年ぶりの最下位でシーズンを終える。この85年は親会社の南海電鉄が100周年を迎える記念すべきシーズンだったが、悲劇で始まった南海ホークスにとっては、その歴史が終焉へと向かう序章だったのかもしれない。

 88年には、4月に川勝傳オーナーが死去。シーズン中から球団の売却が噂された。それでも40歳の門田博光が初の全試合出場で44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の打撃2冠、MVPに輝いて、“不惑の大砲”は流行語にもなったが、9月には悪い噂が現実のものとなる。ホークスの名を残すことを条件に球団はダイエーへ売却。本拠地も長く親しんだ大阪を離れて、九州は福岡へと移転していった。

 ダイエーとなったホークスが王貞治監督の下、徐々に力をつけて99年にリーグ優勝、日本一となったことについては、すでに紹介した。南海にとって最後の優勝となったのが73年で、久保寺の入団よりも前のことだ。それから四半世紀を超える時間が経過していた。だが、そんなホークスを、ふたたび悲劇が襲う。

リーグ連覇の直後に


ダイエー・藤井将雄


 99年4月にはチームの礎を築いた球団社長の根本陸夫が死去。その悲しみを乗り越えてチームは一丸となったが、象徴的だったのは盤石のリリーフ陣だった。左腕の吉田修司篠原貴行、右腕の藤井将雄、そしてペドラザ。“勝利の方程式”と言われた4人の存在は1点差ゲーム27勝14敗という接戦での強さに結びつく。篠原が勝率.933で最高勝率。藤井が26ホールドで最優秀中継ぎ投手に輝いた。

 そのオフ、そんな藤井を病魔が襲う。末期の肺ガンだったが、本人には間質性肺炎と伝えられたという。藤井は5月から二軍で6試合に登板するなど復帰に懸けていたが、ふたたび6月に入院、ホークスのリーグ連覇を見届けるように、32歳の誕生日を3日後に控えた10月13日に死去。ダイエーも日本一に届かなかった。それでも、ダイエーは21世紀に入って黄金時代を謳歌。2005年にチームがソフトバンクとなってからも、その強さは健在だ。

 久保寺の悲報から、優勝できないまま歴史を終えた南海。チームが変わり、本拠地も変わり、チームの中でも世代交代が進んで、ナインの顔ぶれも変わった。ダイエーでは藤井の悲劇があったが、そこから立ち上がって黄金時代へたどり着くことができた。悲しみに沈んだホークスというバトンを、多くの人々が受け継ぎ、輝けるゴールへと運んでいったようにも見える。安直な叱咤や激励などよりも、ホークスという名は、いまの我々を静かに励ましてくれている気もする。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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