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プロ野球20世紀・不屈の物語

太田幸司を襲った人気という悪夢/プロ野球20世紀・不屈の物語【1970〜74年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

アイドルの憂鬱


近鉄・太田幸司


 野球をするだけなら人気は不要だが、これがプロ野球選手となれば話は少し変わってくる。球団にとって集客は生命線でもあり、人気のある選手には、それだけで価値があるという考え方もできるだろう。ただ、野球をするだけなら人気が不要なことも事実。人気だけで実力を伴わないのは本末転倒といえる。だからといって、人気というものは実力だけに集まるものではない。顔の作りが整っている人は、そうでない人に比べて、人生における相当の割合で得をするという研究もあるようで、実際それだけで成立してしまう職業もあるだろうが、プロ野球選手にとっての端正なマスクは、自身に対する理不尽なハードルとなりかねない。

 1970年。1人の若者が、そんな悪夢に襲われる。ドラフト1位で近鉄へ入団した太田幸司だ。青森県の出身。三沢高のエースとして68年の夏から3大会連続で甲子園に出場、今でいう“イケメン”は人気を集めたが、それが爆発したのが最後の夏、69年の夏だった。三沢高は青森県勢として初めて決勝に進出、名門の松山商高と激突する。その決勝戦は延長18回まで0対0のまま引き分け。翌日の再試合は2対4で敗れたが、この2試合を1人で投げ抜いたイケメンの姿は感動を呼び、さらなる人気につながり、そして爆発したのだ。

 実家には毎週500通を超えるほどのファンレターが届いたというが、若い女性を中心に、まったく野球を知らないファンも少なくなかった。指名のあいさつは11球団からあり、最終的には近鉄が指名したのだが、すぐに球団へ電話が殺到。その内容も「いつ太田クンはテレビに映るんですか?」「近鉄ってプロ野球なんですか?」などというもの。入団会見には200人ほどの報道陣に加え、300人ほどの女性ファンが集まった。

 無理が通れば道理が引っ込むといわれるが、こうなってくると、本末転倒のものが、いつしか常識のようになっていくものだ。プロ野球選手にとって人気は単なるツールの1つなのだが、このフィーバーは野球が人気のツール、つまり、野球がうまいアイドルの人気が爆発したようになってしまっていた。アイドルになることが目的なら、それもいいだろう。だが、太田の目標は違う。ただ、そんな太田の存在はまだ優勝の経験もなく、お世辞にも人気チームとは言えない当時の近鉄にとって、ファン獲得という目的のためには必要不可欠な“ツール”だったのかもしれない。

 三原脩監督は1年目から太田を一軍に抜擢。太田を目的に観客が集まり、太田がブルペンで投げ始めると、その周辺だけに観客が殺到する異様な光景も生まれた。しかも、初登板となった4月19日のロッテ戦(藤井寺)で、8回表からのリリーフだったが、9回裏に太田の代打がサヨナラ本塁打を放って、初勝利が転がり込む幸運、いや“悲運”も。そして、一軍での実績もないまま、ファン投票1位で球宴に出場することになる。

地獄で得た貴重な経験


太田のピッチング


「投票はやめてくれと思っていた。球宴は地獄だった」と太田は振り返る。以降3年連続で球宴にファン投票1位で出場したが、ペナントレースでは3年で3勝にとどまっていた。ただ、「地獄」にも「あの投球で自分の何かが変わった」という貴重な経験があった。72年の球宴では、ピンチの場面で巨人王貞治長嶋茂雄と対決。「思いきり行くしかない」と遊飛、併殺に打ち取る。翌73年に初めてファン投票1位を逃すも、40試合に登板して6勝14敗。敗れることも多かったが、「やっと一人前のプロ野球選手になれた」と振り返るシーズンとなった。

 転機となったのが、続く74年だ。新たに就任した西本幸雄監督から「その球を持っていて、肝心なときに弱気の虫を出しやがって。勝負せんかい。気持ちが強くならなあかん。調子いいときだけじゃあかんぞ」と何度も言われた。言葉だけではなく、マウンドも任される。最終的には自己最多の43試合に登板して、前年と同じ14敗を喫しながらも、初の2ケタ10勝。2年ぶりに球宴のファン投票1位にも輝いたが、もはや野球のうまいアイドルのような人気ではない。近鉄の主力として胸を張っての出場だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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