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仙台育英で書道部も……高校で硬式野球部でなかったプロ野球選手たち

 

 プロ野球選手は小学生の時から高校まで野球漬けの生活を送っていたケースが多い。競技人口が多い競技で、人並外れた身体能力に加えて鍛錬を積み重ねなければプロ野球という狭き門でプレーすることはできない。だが、高校で硬式野球に所属した経験がなく、プロ野球の世界に入った選手もいる。書道部、陸上、軟式野球、ソフトボール……今回は異色の経歴でプロ野球の世界に飛び込んだ4選手を取り上げた。


・長島哲郎(ロッテ)
通算10試合登板 0勝0敗0セーブ、防御率3.00

 高校は甲子園常連校の仙台育英だったが硬式野球部に所属せず、書道部だった。東北福祉大学に進学して本格的に硬式野球を始める。4年時に仙台大学戦で9連続を含む17奪三振をマークしてプロ注目の存在に。リーグ通算成績23勝4敗の実績をひっさげ、83年ドラフト3位でロッテに入団。東北福祉大からプロに入団した第1号選手だった。1年目にプロ初先発を含む5試合に登板したが、その後は目立った活躍がなく88年限りで現役引退。ロッテの打撃投手を経て、楽天でスコアラー、ファームディレクター、スカウト部長などを務め、今年からプロスカウトに就任した。

ロッテ・飯島秀雄


・飯島秀雄(ロッテ)
通算117試合出場 打率――、0本塁打、0打点、23盗塁

 中学時代は野球部だったが、足の速さを評価されて高校進学後は陸上部で短距離走の選手に。「ロケットスタート」と呼ばれた初速の速さで64年6月に西ベルリンの国際陸上競技会で100メートル10秒1をマークし、当時の日本記録を29年ぶりに更新した。東京五輪、メキシコ五輪でメダル獲得はならなかったが、ロッテが飯島の俊足に目をつけて68年ドラフト9位で指名。背番号は当時年間盗塁数の日本記録85を上回る期待を込めて88に決まった。「世界初の代走専門選手」と注目され、3年間の現役時代は一度も打席に立っていない。だが、盗塁は足の速さ以外にもスライディングや投手との駆け引きが要求される。通算盗塁数は23、失敗は17で盗塁成功率.575と高くはなかった。現役引退後は陸上界に復帰して審判員などを務め、茨城県水戸市郊外で「飯島運動具店」を営んでいる。


・柴田保光
通算346試合登板 84勝97敗13セーブ、防御率3.49

 通算84勝右腕の柴田が高校時代、硬式野球の経験がないことに驚いた読者は多いのではないだろうか。本格的に野球を始めたのは島原農業高在学中で、当時の同校には軟式野球部しかなかった。社会人野球・丹羽鉦電機に入社して初めて硬球を握ったが、間もなくチームが解散。監督らとともに地元・九州であけぼの通商を立ち上げ、ノンプロ時代はチーム存続のため行商をしたという異色の経歴を持つ。剛球右腕として注目され、79年ドラフト2位で西武に入団。83年オフに江夏豊とのトレードで木村広とともに日本ハムに移籍すると、多彩な変化球を操る技巧派投手にモデルチェンジしてエース格になった。90年4月25日の近鉄戦で東京ドーム初、平成初のノーヒットノーランを記録。86年には自己最多の14勝をマークするなど、3度の2ケタ勝利をマークし、防御率ベスト10入りを5回果たした。日本ハムは低迷期だったが、黄金時代の西武打線を抑え込み、「西武キラー」として人気の右腕だった。

日本ハム・大嶋匠


・大嶋匠
通算15試合出場 打率.167、0本塁打、1打点、0盗塁

 小学生のときは軟式野球をしていたが、進学した新島学園中に野球部がなかったためソフトボール部に入部。新島学園高で高校総体、国体と優勝し、早大に進学後もU-19日本代表の四番打者として活躍した。世界男子ジュニア選手権大会3位に輝き、大学リーグの公式戦では13試合連続本塁打をマーク。大学通算80本塁打でソフトボール界のスター選手だった。2012年ドラフト7位で日本ハムに入団。入団5年目の16年にプロ初安打を放ったが、一軍定着はならず18年限りで退団した。昨年に群馬県高崎市の臨時職員として採用され、職員採用試験に合格。今年から正規職員として勤務している。

写真=BBM
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