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プロ野球20世紀・不屈の物語

“若大将”原辰徳の90年代/プロ野球20世紀・不屈の物語【1989〜95年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

バブル崩壊、原の失速



 プロ野球でも無観客試合が開催される可能性が出てきた2020年。もしそうなれば、めっきり近年は少なくなったが、テレビの地上波で毎日のように試合の中継が見られたりするのだろうか。無観客での開幕を歓迎するわけではない。ただ、1980年代のプロ野球を知る古いファンにとっては、球場へと足を運び、あるいは環境を整えて中継を視聴するよりも、何気なくテレビをつけて、プロ野球の中継にチャンネルを合わせ、それなりに試合を見ながら、その展開によって夢中になるかどうかが変わってくる、という、生活に密着した、あるいはダラダラした野球中継の視聴習慣には親しみがある。とても熱心なファンの姿勢とは言えないのだが、それなりにプロ野球が好きで、そこそこプロ野球を知っている、というような、ファンとは断言しづらいファンが当時は多かった気がする。

 こうした漠然としたファンの多くに、巨人の選手なら知っている、顔と名前が一致する、という人たちがいた。中でも抜群の知名度を誇ったのは、エースの江川卓であり、主砲の原辰徳だろう。彼らがテレビ中継の黄金時代といわれる80年代を象徴する2人なのは間違いなさそうだ。アマチュア試合から全国区で、その当時から親交のあった2人だが、そのラストシーンは対照的ともいえる。江川は余力を残したまま80年代のうちに現役を引退したが、90年代まで現役を続けた原は、成績を落としながらも、バブル崩壊で低迷していく世の中に自らの姿を届け続けた。

 かつては長嶋茂雄の代名詞だった“四番サード”に定着した原だったが、プロ1年目の監督だった藤田元司監督が89年に復帰すると、外野への転向を命じられる。自らのポジションにこだわりがない選手はいないだろう。それには、慣れない守備位置への不安も表裏一体だ。原も同様だったに違いないが、コンバートを受け入れると、すぐ外野守備にアジャストする。だが、バットが湿った。プロ1年目を下回る打率.261。85年から連続で30本塁打を超えてきたものが、25本塁打に終わる。それでも、巨人は斎藤雅樹が20勝、クロマティが打率4割をもうかがう好調でリーグ優勝。近鉄と激突した日本シリーズでも低迷は続いたが、1勝3敗で迎えた第5戦(東京ドーム)で満塁本塁打を放ち、なんとか面目を保つ。年齢を重ねたこともあるだろうが、80年代の前半、“若大将”と騒がれた頃の天真爛漫さは影を潜めたように見えた。

本調子ではないながらも


引退試合でファンの声援に応える原


 90年は出場も114試合から103試合に減らし、20本塁打、68打点も自身ワーストを更新。ただ、打率.303と2年ぶりに3割を上回り、リーグ7位に食い込んだ。巨人も開幕から独走してリーグ連覇を果たす。翌91年は打率を下げたが、本塁打の量産ペースが回復。3年ぶりの30本塁打には届かなかったものの、29本塁打、86打点で復活の兆しを感じさせた。リーグ最多、自己最多の12犠飛という数字からも、決して本調子ではないながらも、チームに貢献していたことが分かる。

 続く92年は一塁にも回り、巨人では初の1億円プレーヤーにもなった。だが、その翌93年からは徐々に出場機会を減らしていく。93年はキャリアで初めて出場100試合を下回り、規定打席にも届かず。オフにはFA制度が導入され、その1年目から中日落合博満が加入。続く94年はアキレス腱の断裂で開幕を二軍で迎え、出場は自己ワーストとなる67試合。それでも中日との最終戦同率決戦“10.8”に出場し、西武との日本シリーズでは適時打を放つなど存在感を見せたが、迎えた95年は、早い時期から引退がささやかれる。試合出場こそ前年を超えたが、6本塁打に終わり、10月1日に引退を発表した。

 引退セレモニーで「私の夢には続きがあります」と語ったのも記憶に残る。ただ、「夢の続き」が、これほどまでに長くなるとは原も予想していなかったのではないか。巨人の監督は3期目だ。開幕を迎えたとしても、異例のシーズンとなることは確実な2020年。我々の近い将来も不透明だが、若手時代のようにはいかないまでも、グラウンドに立つ姿を、せめてテレビででも、見たい気がする。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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