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プロ野球20世紀・不屈の物語

オリックスの助っ人ニールが全速力で駆け抜けた不屈(?)の物語/プロ野球20世紀・不屈の物語【1998年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

復帰して早々の悪夢


96年、巨人との日本シリーズでMVPに輝いたニール


 この数回、大人の役割やら責任やら、難しい話が続いた。柄にもない。恥ずかしい。反省している。ただ、大人の役割は多岐にわたるのも事実。ルールは守らなければならないし、ルールにはなっていなくても、最低限の一般常識から外れたことも慎まなければならない。もっとも卑近なところでいえば、排泄は決まった場所で、というのも、そのひとつだろう。その分別がつかないのは、大人としては恥ずかしいことだ。

 ただ、その欲求というか現象というか、こればかりは時と場合を選ばない。思えば、国民栄誉賞を固辞した阪急の福本豊が語った名言についても紹介した。小規模のケースなら、まだいい。これが大規模だと、がぜん話は変わってくる。大惨事になりかねない。その破壊力の差こそあれ、それなりの爆弾を腸に抱えている人には共感していただけるかと思う。事故の瞬間が恥ずかしいという次元ではないことは想像に難くない。その衝撃は、命あっての物種とはいえ、やがて社会的な生命を奪っていくかもしれない。外出とストレートな表現を自粛しながら書き進めている。

 自分がプロ野球選手であると仮定してみてほしい。衆人環視というレベルではない。大観衆に見守られている最中、こうした衝動に襲われることを想像してもらいたい。まさに悪夢だ。いかにも悪夢に登場しそうなシチュエーションそのものだろう。夢の中なら問題はない。そんな悪夢に、現実世界で見舞われてしまったのが1998年、オリックスのニールだ。

 入団は95年。その前年、94年はアスレチックスでプレーして83試合で15本塁打を放つ活躍だったが、夏にメジャーがストライキに突入、「収入がないのはたまらん」とオリックスと契約。そこから2週間で来日した。1年目はオリックス初のVイヤーだったが、本領発揮とはならず。2年目の96年には32本塁打、111打点で本塁打王、打点王の打撃2冠でリーグ連覇に貢献した。ただ、巨人との日本シリーズでは、全5試合で3安打に終わって、打率.176。だが、その3安打いずれも値千金で、計6打点でMVPに選ばれている。97年オフに解雇されたが、翌98年シーズンが開幕すると、早々に復帰。そんな5月15日、グリーンスタジアム神戸でのダイエー戦だった。猛烈な腹痛は試合の前からだったという。

指名打者の悲劇


腹痛を抱えながら本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周するニール


 ニールは「四番・指名打者」として先発する予定だったが、腹痛のため病院へ行こうとしていた。だが、メンバー交換が行われていたため、記録員にとがめられてしまう。規則では、指名打者は最低でも1打席を完了しなければ交代できない。杓子定規のようだが、ルールはルールだ。試合の開始にも影響を与えかねない事態に、ニールは打席へ向かう。立ったのは打席というより、プロ野球選手としての誇りと人間としての自尊心との狭間だったのかもしれない。その両者を守るべく、ニールはバットを構えた。

 幸か不幸か、ダイエーの吉武真太郎はニールと勝負。あっさり三振しても構わなかったが、これは事後、余裕がよみがえってから思いつくようなことだろう。ニールの頭にもよぎったかもしれない。だが、ニールはプロ野球選手としての誇りも守ろうとした。そして、吉武のカーブをフルスイング。打球はスタンドへ。フェンスオーバーの本塁打のとき、ダイヤモンドは安全地帯といえる。ただ、このときばかりは“危険地帯”。ニールは全速力で走った。

 友人の命がかかった『走れメロス』のメロス以上に重責を背負っていたかもしれない。一塁から二塁、二塁から三塁、そして三塁から本塁へ。ふだんのゴールは、この試合ではゴールではない。ニールは走り続ける。そして、ベンチ裏のトイレへと駆け込んでいく。間一髪、セーフ。実は微妙にアウトだったんじゃないの、などと間違っても思ってはいけない。たとえそうであったとしても、毅然として高らかに、セーフと判定するのが武士の情けというものだろう。

 試合はオリックスが圧勝。一方、その勢いのまま病院に駆け込んだニールだったが、風邪と診断されたという。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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