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パンチ佐藤の漢の背中!

パンチ佐藤があこがれた横浜高初Vメンバーは現在ハウスクリーニング業を営む/パンチ佐藤の漢の背中!

 

神奈川県の野球少年にとって、「横浜高校の安西選手」はあこがれだった。高1の夏に「横浜高校の全国制覇」を目の当たりにしたパンチ佐藤さんの強い希望によって実現した今回の対談。巨人を経て現在は地元・神奈川県内でハウスクリーニング業を営む安西さんの話を、パンチさんは目を輝かせながら聞いていた。
※『ベースボールマガジン』2020年2月号より転載

相模は小さい選手を相手にしないと言われ


パンチ佐藤氏(右)、安西健二氏


 神奈川県出身のパンチ佐藤さん。中学時代、甲子園を目指すべく進学先を考えたとき、第1志望は東海大相模高、第2志望が横浜高だった。その横浜高志望のきっかけになった人が、今回ゲストの安西さん。小柄な体の1年生・安西さんが横浜スタジアムでホームランを放ち、ガッツポーズをしている姿は、中学生だったパンチさんの脳裏に焼き付いて離れなかったという。

パンチ 僕は結局、泣く泣く武相高に行くことになったんですけれども、安西さんは、どういう経緯で横浜高に進んだんですか。

安西 僕は中学時代、無名中の無名だったんですよ。だけど、たまたま最後の試合で三塁塁審をしていた方が横浜高に推薦してくれて、横浜高から連絡が来たんです。ただ、僕は原(辰徳=現巨人監督)さんにあこがれていたから……。

パンチ 東海大相模高ですよね。

安西 もう東海大相模高しか考えていなかった。でも、「相模は小さい選手は相手にしないよ」と言われたんです。それであきらめようとしたところで横浜高に誘われたので、「高校野球がどんなものか、一度見てみよう」と思って、行ってみました。

パンチ 意外とクールだったんですね(笑)。

安西(笑)。まず横浜高へ挨拶に行ったら、渡辺(元智=当時部長)さんが小倉(清一郎=当時監督)さんにボソッと言った第一声が、「こんなちっちゃいのが来てもなあ……」ってニュアンスだったんですよ。ここもダメかと思ったら、なぜか小倉さんが僕を非常に買ってくれて。そこからですよね。

パンチ いきなり「小さい」と言われた安西さんが、どうやって1年生にして横浜のレギュラーを手中にできたのですか?

安西 守備は自分でもまあまあいけたと思っているんです。バッティングもバットを短く持ってね。

パンチ 僕、渡辺さんがどんな方か興味があるんですよ。

安西 渡辺さんは僕が1年の6月、監督に就任されたんです。愛情のある方ですよ。僕は中学時代、ずっとヤンチャで、自分勝手で、怖いもの知らずで来ました。でも高校に入ったら、そんなことでは通用しません。耐えることは横浜高で学んだし、渡辺さんには人として成長させていただきました。僕や愛甲(猛=元ロッテほか)を1年から使ってくれたのは、「お前たちが3年になったとき、柱になるんだよ」という意味だったと思うんです。だって、実力だけを見たら、おそらく上の人もいましたから。

パンチ しっかり自覚を持てよ、と。「3年生になったらお前たちが引っ張るんだ。それにはこんなことでいいのか?」と責任感を与えてくださったということですね。

安西 まだ1年生で、先輩がいる中でもバントのサインだとか、シフトを僕がやらされたんです。言葉はなくとも、しっかりしろということが伝わってきましたよね。

パンチ それで実際、3年生になったら甲子園で優勝ですもんね。全国制覇の感触、味はどんなものでしたか。

安西 当時は「やった! 優勝した!」と。僕はそれにプラス、「ようやく終わった」という感覚でした。でも、そのとき監督さんに「10年経ち、20年経ったら、どんなに素晴らしいことをしたかが分かるよ」と言われたんです。本当にそうなんですよ。パンチさんはじめ、同じように厳しい練習をしてきた球児の中でも、優勝したのは僕ら一握りなんですよね。ものすごいことをしたんだなという思いが年々深くなっていきます。

あこがれの原辰徳と巨人では同期入団に


3年の愛甲猛、安西健二を擁した横浜高は夏3回目の出場となった1980年の甲子園で、早実を破り同校史上初の優勝を果たした


パンチ しかし僕、安西さんはてっきり大学に進むものだと思っていました。

安西 初めはそのつもりだったんですよ。大学、社会人と野球をやって、高校野球の監督をやるのが夢だった。プロ野球は無理だと思っていたからね。そうしたらある日、監督さんが「お前、ジャイアンツ行くか」って言うんです。冗談だと思って、「いいですよ、監督さんが行けって言うんだったら行きます」と答えたら、本当に決まってしまいました(笑)。

パンチ それも、ジャイアンツですよ。ユニフォームを着て、まず何を感じました?

安西 そのときの同期入団が、原(辰徳)さんなんです。僕の中で、原さんはやっぱり神様。その原さんと一緒に野球ができる、同じユニフォームを着られるということが、まずうれしくて。

パンチ 実際グラウンドで見たら、やはり輝いていましたか?

安西 原さんが入寮した日、メディアが練習している様子の写真を欲しがってね。そのとき原さんが神奈川の後輩だということで、「おお安西、ちょっとティーやろうよ」って呼んでくれたんです。原さんとプロで最初に練習したのは僕なんですよ。それがまたうれしかったですね。

パンチ 原さんのスイングはどうでしたか。

安西 もう、驚きですよ。こういう人がスターなんだなと思いましたね。人気だけじゃない、大学生と高校生の差があるとはいっても、実力がまったく違いました。

パンチ そこでティーを上げるなんて、緊張して手からボールが離れなかったんじゃないですか(笑)。

安西 本当ですよ(笑)。で、原さんが打って「じゃあ、次は安西が打てよ。代わろう」と言われても、上げてもらえないですよ。「いや、いいです、いいです」って言ったんだけど、打たせてもらった。それがプロの第一歩でしたね。

パンチ 練習はどうでしたか。

安西 周りはみな、大きな人ばかりでねえ。身長185センチの鈴木伸良さんとキャッチボールをすることになったんですよ。球界でも指折りの強肩で、「うわ、これがプロなんだ」、「こんなところでできるのかな」と不安になりましたね。まだ周りを見る余裕もなくて、鈴木さんの球しか見えていなかったから。

パンチ「なんとかやっていけそうだな」と思ったのは、どのくらい経ってからですか?

安西 キャンプに行くころにはだいぶ周りも見えてきましたね。何より良かったのは、例えば内野の後ろのバントシフトとか、外野のカットプレーとか、そうした動きが、ジャイアンツと横浜高はまったく一緒だったんですよ。監督やコーチは高校生がそこまでやっていると思わないから、「コイツ、1回見ただけでできるのか。呑み込みが速いな」と思ったんじゃないかな。僕にしてみれば3年間やってきた、当たり前のことをやっていただけなんだけど。

 高校時代はサード、セカンドを経験し、「内野の動きはすべて分かっていた」と言う安西さん。その好守が首脳陣の目に留まり、ルーキーイヤーの開幕を、ファームの正二塁手として迎えた。“将来の斬り込み隊長”を期待された安西さんだったが、その後、長らく故障に苦しめられることになる。

「守備で生きる」と考えてから濃い時間に


81年、ドラフト外で巨人へ入団(安西氏は後列右から3人目)。同い年の同期に駒田徳広(後列中央)がいた


パンチ プロ生活は、どんな3年間でしたか?

安西 3年間っていっても、最後の1年はほとんど故障で思うようなことができなかった。正味2年ですよね。1年目に、開幕に出してもらったのは良かったけど、結局レベル的に付いていけない部分があって外された。以降は守備要員のような形になって、そこで「プロの世界で俺が生きるためには何が必要か」考えさせられましたね。バッティングはもう、正直言って飛距離も打球の強さ、速さもかなわない。高校時代、守備はそんなに好きじゃなく、むしろ苦手なほうで、バッティングのほうが良かったのにね。

パンチ バッティングのほうが楽しいですしね。

安西 自信もあったしね。でも守備で生きるしかないと思って、そこから毎日、練習後に特守を受けました。そこからは――「俺は守備で生きるんだ」と自分で考えてやり始めてからの時間は濃かったというか、納得するものになりました。

パンチ 時間は短くともやるだけやったという。

安西 誰よりもノックを受けただろうということが自信になったし、2年目にサードでファームのレギュラーを取って、「よし、これからだ」と思ったんです。ところが夏場くらいから腰が痛くなってきた。初めは我慢していたんですよ。自分が外れたら、誰かが代わりに出るわけだから。自分からは言えないです。最終的には腰が痛くて曲げられず、ソックスもスパイクも自分では履けないほどになってしまいました。そのオフにいったん良くなったんですが、結局それが尾を引いて、プロ野球生活が終わった形ですね。でも、故障を含めて実力の差だったと思います。

パンチ 引退といっても、まだ21歳ですよね。さて、どうしようと?

安西 実家が土木、建築関係の会社をしていたんですよ。それまで親に何かと負担をかけ、協力してもらって野球を続けてきたわけですから、野球が終わったら親の仕事を継ごうと思いました。球団から二軍のマネジャー補佐とかトレーナーの勉強をしないかとか、いくつかお話もいただいたんですが、自分は野球ができなくなって、同世代の一緒にやってきた人たちが野球をやっている姿を見るのはちょっとつらかったので、野球から離れることにしました。

パンチ トラックとか、ゴツイ車に乗ったんですか。

安西 4トンですけどね。あとは重機も動かしましたよ。

パンチ そこからどういう経緯で、今の仕事につながったのですか。

安西 親父と兄と3人で、グラウンドを作る仕事をしていたんですが、親父が亡くなったのを機に、別の土木関係の仕事に就きました。ちょうどそのとき、元ジャイアンツの佐野クリスト(元国)さんが『クリス・ ベースボール・アカデミー』を立ち上げることになって、コーチに誘われまして。

パンチ 何年やったんですか。

安西 1年ですね。学校自体が当時あまりうまくいかず、辞めました。それでまた、土木関係の仕事に戻ったんです。40歳ごろ、ある会社のオーナーが自分の会社の軟式野球を強くしたいとおっしゃって、監督として雇ってもらうことになりました。昼間は事務仕事をして、平日夕方や土日に仕事をする形でした。そこに15年近くいたのかな。

パンチ 野球に仕事に、充実して楽しい時期だったんですね。

安西 楽しかったし、いろんな面で勉強もさせてもらいました。今、ハウスクリーニングの仕事の傍ら、子どもたちに野球教室をしているんですが、あの時期、硬式と軟式の違いを勉強しておいて良かったと思いますよ。

常に自分のできる最高の仕事をする


パンチ ハウスクリーニングの仕事に就いたきっかけは?

安西 年も年で、このまま会社に残って定年になって何をするんだって考えたときに、ハウスクリーニングの仕事があるよ、と声を掛けていただいたんです。ちょうど横浜高の番場常彦先輩が、バンビルメンテナンスという会社をやっておられたので、話をうかがいに行きました。

パンチ 番場さんは横浜高で背番号12を着けて甲子園に行き、川崎水道局に入ったんですよね。その後、いくつかの仕事を経てビルメンテの会社を興された。

安西 番場さんのところに行って、仕事をいただく云々ではなく、まずハウスクリーニングとはどういうものか話を聞き、アドバイスをいただけるだけでも違うと思ったんです。

パンチ どんな言葉をもらいましたか。

安西 番場さんって、普段はよく冗談も言うし、お互い楽しく昔話をできる先輩なんですが、いざ仕事の話になると、非常に厳しい方でしたね。「そんな簡単に考えてできる仕事じゃないぞ」と。そこから最終的には「こんなお客さんがいるよ」と話をいただいて、「頑張れよ」と。「お前が本当にやりたいのなら、協力してもいいよ」とまで言っていただけました。行っていきなり「いいよ、仕事をやるよ」と言われるのではなく、厳しさを先に教えていただいたのは良かったと思います。

パンチ 2個上の先輩で、安西さんの性格も知っているから、「こいつは厳しいことを言っても、負けずにやるぞ」と思ったんでしょう。しかし清掃の仕事って、ご苦労が多そうですよね。野球だとエラーしても三振しても最後にホームランを打ったらヒーローじゃないですか。でも清掃の仕事は、例えばホテルならお客さんがガチャっとドアを開けたとき「え?」って一瞬思ったら、もうアウトですもんね。そういう怖さがあるんじゃないですか。

安西 清掃の場合は、毎回毎回、同じ人がチェックするわけではないんですよ。僕はアパートやマンションで住人が退去したあとの部屋のクリーニングをしていて、チェックする人も大家さん、不動産屋さん、と毎回変わるんです。だから、見る人によって視点が違う難しさはあります。そこは常に、今自分ができる最高の仕事をするだけですね。

パンチ 僕もグルメレポーターでも講演会でも、100点と思って帰ってきたことはないですから。あそこのトークをもっと分かりやすくしゃべったほうがよかったなとか、日々反省しながら次、と思っています。

安西 100点なんて絶対取れないですよ。それに近づけようとしてやっているんだけど、やっぱり「あそこをもうちょっとこうしたら早くできたはずだな」とか、何かしら出てくるんですよね。

パンチ 最後に安西さん、今後の夢はなんですか。

安西 この仕事を始めて、もうすぐ2年。ようやく軌道に乗ってきたかな、というところです。今はまだ1人で、女房子どもを食わせるのに精いっぱいですが、早く一人前になって、いずれは番場さんのように会社を大きくしたいですね。

パンチ 今、東京五輪に向けて、清掃の仕事はお呼びが多くかかるんじゃないですか。

安西 業者もかなり多いし、競争の世界ですよ。結局はどこで勝負かと言ったら、腕と信用ですからね。

パンチ 僕もパンチ企画って一人でやっているんですが、なんの営業もゴマすり接待も、年賀状もお中元もお歳暮も送ったことはないけれど、ちゃんとやっていると仕事の電話がかかってくるんですよ。

安西 そうです。だから、絶対見てくれている人がいると思うんですよね。

パンチ 最初の、三塁塁審のように。

安西 誰かに見てもらおうと思ってやる必要はなくて、普通にやっていればいいんですよ。僕、子どもたちの野球教室でよく言うのは、「全部自分に返ってくるよ」ということ。一生懸命やったらやっただけ、さぼったらさぼっただけ、自分に返ってくる。野球の練習なら、与えられたメニューをやるのもやらないのも自分次第。ただし、よく考えなさい、全部自分に返ってくるんだからね、と。

パンチ 50歳過ぎたあたりからですかね、昔話って本当なんだなって分かってきますよね。僕も小学生に言うんです。人に意地悪したら、自分も意地悪されるよって。

安西 そういうことです。正直自分の体調や気分によっては、手を抜きたくなるようなときもあるわけですよ。だけど、そこで踏ん張れないと、そのあと必ず自分に返ってくる。そう子どもたちに言いながら、実際は自分に言い聞かせていますね。

パンチの取材後記


 今回、安西さんの話をお聞きして、職種はまったく違っても、仕事の本質は同じなんだなあと思いましたね。例えば安西さんも、ドアを開けた瞬間、比較的キレイなとき、ビックリするぐらい汚れているとき、いろいろな現場があるそうです。それでもなんとかピカピカにして帰るのが安西さん。僕も講演会で「今日はいけるな」と思うときと「これは手強いな」と思うときがあります。それでも一度は笑わせて帰ってこなければならない。一回一回、勝負です。

 その積み重ね、どんなときもコツコツ、真面目に自分のベストを尽くすこと。そうすれば必ず誰かが見てくれているし、そうでなければ必ず自分に返ってくる。このことを僕もあらためて心に刻み、次の仕事に向かいたいと思います。

●安西健二(あんざい・けんじ)
1962年4月29日生まれ、神奈川県出身。横浜高では愛甲猛と同期の正二塁手として1年時からレギュラーとして活躍。高3夏の甲子園では決勝で当時1年の荒木大輔を擁する早実を倒し、全国優勝を果たす。81年、ドラフト外で巨人に入団も、故障もあって3年間のプロ生活で一軍公式戦出場なし。83年限りで現役引退後は家業の手伝い、野球指導者の傍らの会社員を経て、現在は独立。ハウスクリーニング会社「クリーンアップ」を設立した。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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