週刊ベースボールONLINE

編集部コラム

120試合制も過去にあり、プロ野球に前代未聞はない?

 

昔のエースはすごかった


今週号の表紙




 今週の『週刊ベースボール』は球場と、夏の甲子園中止の波紋を特集した。
 その中で、「120試合制」について書いた記事を抜粋、加筆する。

 おそらく、これから120試合前後のスケジュールが発表され、新聞各紙「異例のシーズン」「前代未聞のシーズン」などの見出しが躍るかもしれない。
 確かに異例ではある。
 ただ、決して「前代未聞のシーズン」ではない。

 試合数については現在の143試合、過去の130試合の印象が強いかもしれないが、2リーグ制最初、1950年から53年のパは120試合制だった。
 セでも51年から53年がそうだったが、このうち51年がすごい、いや、ひどい。
 オフの日米野球のため早々に打ち切りとなり、最多がセでは阪神の116試合、パでは毎日110試合。セの広島、パの阪急、近鉄が100試合に達しておらず、最少は阪急で96試合だ。
 要は公式戦より、日米野球のほうが大事、という判断だった。

 なお、このときのセ優勝の巨人は79勝29敗6分、2位の名古屋(中日)に16ゲーム差、パ優勝の南海(現ソフトバンク)は72勝24敗8分で2位西鉄(現西武)に18・5差と大独走となっている。

 話を戻し、2020年が120試合となった場合、5カ月で中6日なれば、20試合程度の登板で、最多勝はおそらく10、11勝。パがCSのためシーズンを短縮するとしたら1ケタの最多勝もあり得ない話ではない。

 では、51年はどうだったかと言えば、
 投手部門で、20勝以上はパでは24勝の江藤正(南海)のみとさすがに低調だが、セでは28勝の杉下茂(中日)を筆頭に4人。すさまじいのが国鉄(現ヤクルト)の金田正一だ。チームの107試合中56試合に登板し、うち44試合先発、25完投、投球回は350イニングとなっている。

 投手でいえば、翌52年、全チーム120試合のセもすごかった。
 最多勝は33勝の別所毅彦(巨人)で52試合に投げ、41試合先発、28完投、2位が杉下で32勝。61試合に投げ、30試合先発の25完投だ。24勝25敗の金田もまた64試合に投げ、41試合先発23完投。
 昔のエースと呼ばれた男たちは、まさに怪物だ。

 戦前はさらにとんでもなく、96試合制だった39年、優勝の巨人は66勝だったが、うち42勝がスタルヒン(68試合登板、41試合先発)、戦争悪化により35試合制となった44年、優勝した阪神は27勝6敗2分だったが、うち若林忠志が22勝4敗2分。兼任監督だった若林は、31試合に投げ、24試合に完投しているから、1人で優勝したようなものだ。

 ただし、日程に関しては、5カ月で120試合の今シーズンのほうが、はるかに過密。
 前述の51年の場合、セ優勝の巨人は3月29日開幕で10月4日閉幕、パの南海は3月31日開幕で9月29日閉幕と、およそ6カ月ある。
 スケジュールの長さですごいのがオール120試合の50年パ。優勝の毎日(現ロッテ)の開幕は3月11日で、閉幕はなんと11月15日、日本シリーズは22日から28日だった。
 ただし、これはのんびりしていたというわけではなく、当時の交通事情では、移動がそれだけ大変だったこともある。移動を含めた拘束時間は当時のほうがはるかに長く、かなりのハードだったはずだ。

 今回は集中開催についても話題になっているが、50年当時はフランチャイズ制にはなっておらず、まさに集中開催の連続だった。
 パの開幕カードを見ても3月11日が西宮球場で毎日─西鉄、南海─阪急(現オリックス)のダブルヘッダー、12日が藤井寺球場で毎日─近鉄、大映─東急(現日本ハム)のダブルヘッダー。今回は詳しく触れないが、当時は地方の開催も多く、まるで旅芸人のスケジュールのようでもある。
 要は複数の球団とセットで、東京を出発し、東北で試合をしながら北海道に行き、再び東北で試合をしながら東京に戻る、というスタイルだ。

 ともあれ、野球の歴史を振り返ると、なかなか「前代未聞」というサプライズはない。(文・井口英規)
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング