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プロ野球20世紀・不屈の物語

野村克也による“革命”はすでに起きていた? “交代完了請負人”佐藤道郎/プロ野球20世紀・不屈の物語【1970〜77年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

リリーフ革命の前夜


南海・佐藤道郎


 司令塔として南海の黄金時代を支え、四番打者として三冠王も経験した野村克也が南海の兼任監督となったのが1970年のこと。そんな野村が、阪神から移籍してきた江夏豊に「リリーフの分野でプロ野球に革命を起こそう」という殺し文句でクローザーへの転向を促し、再生に成功させたのは有名なエピソードだ。当時は投手の先発完投が当たり前と思われていた時代。それは、リリーバーはスターター失格の烙印を押された投手であり、圧倒的に格下だと思われていた時代でもある。

 阪神では剛速球で鳴らした左腕だが、南海へ移籍してきたときには満身創痍。それでも最初は抵抗した。2013年のインタビューで、このときのことを野村は振り返っている。「(革命という言葉に)江夏も目の色が変わって『革命か』(江夏)、『おう、革命だ』(野村)、『分かった』(江夏)、となった」という。そして江夏は移籍2年目の77年、“革命”に成功した。ただ野村は、こうも続けている。「彼が『監督、リリーフやりだしたのは僕が先でしょ!』って。僕は、『我慢せい。人気の世界だから。人気者には勝てないんだ』とね(笑)」。

 彼、とは佐藤道郎のことだ。まだプロ野球にセーブ制度はなかった時代だが、“彼”の発言は紛れもない事実。ドラフト1位で野村が兼任監督となった70年に入団、野村にリリーバーとしての適性を見出され、1年目からリーグ最多の55試合に登板した。救援のマウンドが中心だったが、規定投球回にも到達して18勝、防御率2.05で最優秀防御率、新人王に輝いている。だが、もちろん最多セーブや最優秀救援投手などのタイトルはなく、ひたすら交代完了の数字を積み上げたのみだった。のちに江夏は広島日本ハムで”優勝請負人”と呼ばれたが、この当時の佐藤は、いわば”交代完了請負人”。セーブやホールドのある現在では注目されることも少ないが、これは間違いなく、佐藤の活躍を雄弁に物語る勲章だろう。

 メジャーでセーブ制度が採用されたのが69年、これにプロ野球がならったのが74年だが、その後も長い間、投手の先発完投は重視され続けている。また、佐藤よりも前に、すでに紹介した巨人の“8時半の男”宮田征典らリリーフ専門とする投手はいて、現在は完全に定着している“投手分業制”にとって、この70年代は過渡期だった。

通算500試合登板、39セーブ


 登板は決まって勝負を分ける重要な場面。いざマウンドに上がれば、イニングを問わず投げ続ける。負けん気は人一倍で、左腕を高々と上げて投げ込む力感あふれるフォームで闘志を前面に押し出す投球スタイルだったが、投球術は打って変わってクレバーだった。変化球はカーブ、スライダー、シュート、ナックルの4種類だったが、佐藤は「1球2種。速いのと遅いので倍々ゲームになる」と語る。これにクイックなどの「フォームの緩急」や、投球の間隔を変える「間の緩急」など、3種類の“緩急”も駆使。自身の決め球も独特に表現する。「べっぴんさんばかりが続けて通るより、最初の2人は普通の人(笑)で、最後にべっぴんさんが通ったほうが感激するじゃない」。つまり、遅い球を織り交ぜたほうが速い球が際立つ、ということだ。

 キャリアを通して数字に頓着しない印象もある佐藤だが、さすがに74年の初代セーブ王にはこだわりがあったようで、勝ち星がついて苦笑いを浮かべる場面もあった。それでも7勝13セーブで戴冠。1イニングを超えるロングリリーフも多く、防御率1.91で2度目の最優秀防御率にも輝いている。江夏のリリーフ転向で先発に回った77年には12勝。持ち場を奪われた形になった江夏とも気が合い、役割分担もスムーズだったという。野村と江夏が去って迎えた78年は精彩を欠き、翌79年に大洋へ移籍、その翌80年のキャンプで若手時代のように投げ込みをしたことで右肩を痛め、オフに現役を引退した。やはり、ひょうひょうと振り返る。

「壊れないのが自慢だったからね。でも11年で500試合だから、よく投げたよ」

 通算500試合の登板で、39セーブ。この少ないセーブ数も、間違いなく勲章だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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