一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 石戸四六、再び失踪
今回は『1971年8月16日号』。定価は90円。
球界における「親分」は南海・
鶴岡一人だけ。南海OBは、今も、そう口をそろえる。
だが、今のファン(と言っても若い人は知らんだろうが)であれば、「親分」と言われ、最初の思いつくのは、
日本ハム監督・
大沢啓二のはずだ。
大沢が「二代目」と言われだしたのは、
濃人渉監督が二軍に降格、二軍監督だった大沢が
ロッテの一軍監督になったときだった。
大沢はアマ時代に武勇伝が多い男だったが、プロ入り後、何か不祥事や荒事をしたわけではない。
立大から南海に入り、頭脳派外野手として活躍。鶴岡氏は、「心臓の強さとべらんめえ調で、2、3年したら10年選手みたいな顔をしていた。若い選手はあいつの前に行くと、ピリピリしていたよ」と話していた。
初戦の前、「俺は素人監督だから何をやるか分からんぞ」と言った大沢は、一番好きな言葉は、と聞かれ、
「ファイトよ。俺が監督になって選手にいったのは、シュン太郎にならず、気持ちよくやろうだけ」
シュン太郎は、シュンとしたヤツ、ということだろう。
就任直後の出だしは4勝1敗と好スタート。
「ケンカとバクチはツラを張れって言葉があるじゃねえか。初めにいい目が出たということは、俺も勝負運もそれだけ強いというわけよ」
と二代目っぽい。
ただ野球に関しては堅実。
「俺はね、機動力の野球が好きでね。野球とは相手のミスをつくもの。1つでも多くミスにつけこまれたほうが負けになるんだから」
と話していた。これも鶴岡南海の野球。さすが二代目。
前年オフ、25パーセントのダウン提示にすね、「体が悪いから」と秋田に帰り音信不通になった
ヤクルトの
石戸四六。このときはそのまま任意引退となったが、半年たって、「もうだいぶよくなかったから」と突然上京した。
ただ、球団から「テスト期間をもうけ、合格したらあらためて契約の話をしよう」と言われると、へそを曲げたか、再び姿を消してしまった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM