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プロ野球20世紀・不屈の物語

「巨人を変える」と言われた“天才”吉村禎章の悲劇と再生/プロ野球20世紀・不屈の物語【1988〜89年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

札幌円山の悲劇



 不屈の物語という連載である以上、この男に触れないわけにはいかない。30年あまりが過ぎた現在でも振り返られることは少なくなく、当時を知るファンには耳どころか目にもタコができるような話かもしれない。ただ、この21世紀に生まれた若いファンが、この巨人の吉村禎章を襲った悲劇と再生のドラマを知らないというのは、あまりにも惜しい。時間は流れ、時代は過ぎていく。20世紀から年齢を重ね続けている我々の老婆心のようなものは若い人には鬱陶しがられるかもしれないが、それでも、しつこいくらいに語り継いでいくのも役割だろう。

 1988年7月。北海道へ遠征していた巨人は、札幌円山球場で中日と対戦していた。前日の試合で4打数2安打、1本塁打、2打点でチームを勝利に導いたプロ7年目、25歳の吉村は、この日も好調を維持。3回裏には3試合連続となる本塁打を放ち、これが通算100号となるなど、記念すべき試合になるはずだった。これを起爆剤に巨人の打線も勢いづき、7回裏には9対1と大きくリードを広げる。

 だが、徐々に運命の歯車は狂い始めていた。二死から、吉村はネクストバッターボックスへ。王貞治監督は「打ったら次の守備から交代」と声をかけたが、打者が倒れ、続く8回表、そのまま吉村は左翼の守備に就く。一死から、左中間へ大飛球。これを追った吉村は、まともに中堅手と激突する。吉村のヒザは、あり得ない方向に曲がっていた。すぐ担架で運び出され、救急車で北大付属病院へ。そこでは明確に分からなかったが、左ヒザじん帯4本のうち3本を断裂、腓骨神経も損傷という重傷だった。

 吉村は渡米。前年、肩の内視鏡手術を受けたジョーブ博士の手術を受ける。日本のプロ野球選手も手術してきた権威で、手術には成功したものの、そんなジョーブ博士をして「ここまでひどいケガは1度しか見たことがない。吉村が復帰できるか分からない」と言わしめるほどの大ケガだった。すさまじい痛みの中、術後2日目からリハビリが始まった。8月には帰国してリハビリ専用の施設へ。回復の度合いも分からず、また野球ができるかも分からない。先は見えないが、痛みは治まらない。ペナントレースは閉幕したが、吉村のリハビリは続いた。翌89年2月、ふたたび手術。じん帯は順調に回復していたが、足首から先が自力で動かせるようにならない。神経が戻らないのだ。

東京ドームの奇跡


 5月、ジョーブ博士にリハビリ用の特注スパイクを作ってもらい、そこから練習を再開する。イースタンの試合にも出場した。一軍の試合に復帰したのが9月2日のヤクルト戦(東京ドーム)。札幌円山の悲劇から423日ぶりのことだ。その1日1日を詳しく知ることはできないものの、少し想像してみてほしい。未来どころか近い将来も見えず、激痛に悶絶しながら、自力で足を動かせない423日。ここ数カ月、我々の多くがストレスをためているが、とても及ばない過酷で残酷な日々だったはずだ。

 吉村の名前がコールされると、東京ドームは万雷の拍手に沸いた。結果は二ゴロ。凡退したことなど問題ではなかった。点を奪い合い、勝つか負けるかのプロ野球。その凡退をヤジるようなファンはいなかっただろう。打席に入るだけでも奇跡だった。吉村が一塁へ走る姿に、東京ドームのプロ野球ファンは一体となって声援を送る。テレビで見ていたファンの思いも同じだっただろう。吉村も走りながら感極まり、涙はベンチへ戻っても止まらなかった。

「巨人の歴史を変える」とさえ言われた天才は、その後は完全に状態が戻ることはなく、どうしても代打での起用が多くなった。それでも90年には優勝を決めるサヨナラ本塁打を放つなど印象的な活躍を見せ、98年までプレーを続けている。

 事故がないのが一番だが、努力で避けられない事故もある。自暴自棄になったリハビリ中、吉村は同じ施設にいた車椅子の少年に励まされたという。事故は誰にでも起こり得る。もし我々に不慮の出来事があり、そこから立ち上がろうとするとき、吉村の存在は少なからず激励となってくれそうな気がする。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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