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プロ野球20世紀・不屈の物語

現役生活22年……大野豊の”原点”135.00/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

テストを受けて広島へ



 勝ち星や本塁打のように、積み上がっていく数字は分かりやすい。数字が大きくなればなるほど成績がいい、ということになり、計算は足し算のみだ。割り算が入ってくるが、打率も数字が大きいほど成績がいいことになるので、同じ頭で考えることができる。一方、防御率は数字が小さければ小さいほど、いい成績となる。数学はおろか算数すらトラウマのようだった少年時代の筆者には、その仕組みは難しく、その計算式を知る術もなかった。知っても分からなかったかもしれないが、最近のリモート飲み会のように、「いまさら人に訊けない」類のものであり、小さいほうがいい、という知識のみで知ったかぶりを貫くしかなかったのだ。

 いまも、野球に親しんでいる少年少女に、当時の筆者のような人がいるかもしれない。かつての勢いのまま知ったかぶりをして手短に述べてみると、投球回と自責点を基に、1人の投手が1試合9イニングを完投したときの自責点を平均したもので、例えば防御率1.00の投手は1試合9イニングを自責点1で終えると考えることができる。一方で、防御率135.00の投手は、1試合に自身の責任で135点を献上したことになるのだ。

 ここから先の難しい計算については、少年少女には各位、がんばって勉強していただきたいのだが、そうした若いファンには、前述の例が極端に感じられたかもしれない。1試合で135点とは、どれだけダメな投手なのかと思ったりもしただろう。ただ、昭和のプロ野球を知る世代には、この数字にピンとくる人は少なくないはずだ。かろうじて20世紀のプロ野球を知る世代にも、広島の大野豊といえば、40歳を過ぎても投げまくっていた左の鉄腕が思い出されるのではないか。その左腕のプロ1年目、1977年の数字こそが、防御率135.00だったのだ。

 島根県の出身。出雲市信用組合では軟式でプレーしていたが、広島の山本一義コーチとエースの池谷公二郎が野球教室のため出雲市を訪れ、その手伝いをしたことで、初めてプロ野球を意識したという。それまでは試合で投げるだけで満足に練習もしていなかったが、そこから頼み込んで広島の入団テストを受ける。入団テストは秋に行われるのが一般的だったが、特別に、2月に見てもらったという。3月に入団。キャンプにも参加できず、体を作りながら硬式球に慣れていく1年目だったが、5月には二軍で投げ始めて、8月には一軍へ。9月4日の阪神戦(広島市民)で早くも初登板を果たした。だが、奪ったアウトは一死のみで、満塁本塁打を含む被安打5で5失点、自責点も5点と大炎上。77年は結局、この1試合の登板のみに終わり、シーズン防御率135.00という数字だけが残された。

母からの叱咤激励


 大野は、のちに振り返っている。

「終わった、と(笑)。周りもみんな、そう思ったでしょう。ただ、母親に電話したら『1回の失敗であきらめるな。もう1度、がんばりなさい』と。確かに、そうだなと思いました。結果は悪かったけど、考え方によっては、それまで何もせず軟式でやっていて、プロ1年目から投げられたということは、自分の中に何かいいものがあるってことなんじゃないか、と。ただ、いいものがあっても、体力や技術、メンタルも含めて、まだプロでやっていける力が備わっていないんだと思って、もう1度しっかり鍛えようという気持ちになりました」

 どん底の1年目。1度の失敗で2度と信用を回復できないこともある。そのためのガッツすら萎えるほどの大失敗でもあった。だが、大野は前を向く。翌78年には同じ左腕で、歴戦の江夏豊が南海から移籍してきたことも追い風になった。もともとファンだった江夏の助言は、すぐに結果を呼ぶ。自信もよみがえってきた。まずは、クローザーの江夏につなぐセットアッパーとして台頭。江夏が日本ハムへ移籍すると後釜に座り、その後は先発でも抑えでも、役割を変えながら投げまくった。98年に引退するまでの22年で通算148勝138セーブを残し、最優秀防御率のタイトルは2度。通算防御率2.90という上々のフィナーレだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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