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プロ野球20世紀・不屈の物語

たった1人のせいで(?)低迷した中日の悲喜劇/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

実績もポテンシャルも抜群だったが……


中日・デービス


 プロ野球に限らず、マイペースな人がチームにいるのは困りものだ。マイペースなどと、まろやなか言葉を使うからよろしくない。身勝手な人間と分かりやすく表現して差し支えないだろう。1人では達成できない目標のために、人はチームを組織して、さまざまな難関に立ち向かっていく。にもかかわらず、その中に自分のペースを崩さないことが最優先という人がいると、どうしても士気は下がるものだ。その1人の人間性に起因した問題が次々に起こるから、真綿で首を締められているように皆が疲弊していってしまう。

 マイペースな人は腰が重い傾向もあり、チームの足並みも乱れていく。同時に、何もしないことで本来なら必要のない仕事を作り出したりもするから、チームメートは1人の尻ぬぐいに労力を割かれることになってしまう。プロ意識をもって自戒したところで、そんな人に対して腹が立って頭にくるのは人情というものだ。

 ただ、そうした自分勝手をうらやむような人も一定数いて、1人、また1人と、好き勝手に行動する人が増えていったりもする。「死ななきゃ治らない」とか「死んでも治らない」と言われる“難病”が伝染病でもあることを思い知らされるのは、そんなときだ。こうなってしまうと、そのチームに競争力は残っているはずもないだろう。チームの存続が精いっぱい。早々に解散したほうがいいのかもしれない。間違っても、たった1人の尻拭いのために集まったチームではないはずだ。こうしたチームの崩壊は、周囲から見れば喜劇的だが、そのチームのメンバーであれば、ちょっとした悲劇だ。

 そんな悲劇的な状況にあったと思えるのが、1977年の中日だ。どうも、1人の選手がチームを低迷させていたフシがある。その選手とは、メジャー通算2547安打と鳴り物入りで来日した助っ人のデービスだった。当時は現役バリバリで来日する助っ人が希少だった時代。創価学会の信者であることで来日を決めたといわれる。信仰は自由だが、そもそも動機が野球ではない。つまり、目的が違ったのだ。春のキャンプでは毎朝7時から30分間、読経してチームメートの安眠を妨げる。これは筆者の経験による想像になるが、ちゃんとした修行に基づいた読経なら時間とともに慣れていくもので、たとえ大音量であっても、そのうち目が覚めることもなくなるものだ。デービスの読経は、ヘタだったのではないか。それで目を覚まされる毎日を想像してもらいたい。眠りの中でうなされる悪夢より、はるかに悪い夢といえるだろう。開幕しても、中日ナインの悪夢は続いた。

中日が復調した要因?


 デービスは個人的には絶好調。さすがに身体的なポテンシャルも抜群で、5月には俊足を飛ばしたランニング本塁打で驚かせ、7月には月間MVPに。だが、中日は開幕から低迷を続ける。デービスは出塁すれば相手の投手に向かって奇声を上げ、舌まで出して愚弄。チームメートが活躍するのはいいが、活躍のたびに愚行を繰り広げるのは頭が痛いことだ。さらには、デービスは与那嶺要監督を完全に見下していたという。これでチームが一枚岩になったとしたら奇跡だ。

 だが、デービスは8月に骨折して帰国。すると、それまで5位だった中日は、じわじわと順位を上げていく。最終的にはAクラス3位で閉幕。デービスは退団していった。ちなみに翌78年、そんなデービスをクラウンが獲得。デービスは主に三番打者として127試合に出場したが、チームの結果にはつながらず。デービスは帰国し、これはデービスとは関係ないが、5位に終わったクラウンはオフに西武となって、福岡から埼玉へ移転した。

 中日ナインからすれば、味方にこそ敵がいた、というようなものだったのかもしれない。個人が結果を残すことがチームの向上につながるとは限らないのは、プロ野球だけではないだろう。人気商売であれば目立つことも必要だが、中には悪目立ちしているだけであることに気づかない人もいる。だからマイペースと言われるのであり、だからこそ敵よりも味方のほうが苦しめられるのだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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