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プロ野球20世紀・不屈の物語

巨人・川相昌弘の“犠打王”前夜/プロ野球20世紀・不屈の物語【1984〜97年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「最初はヘタでしたよ」



 野球のプレーは数あれど、やはり犠牲バントは地味な存在だ。2020年のプロ野球は無観客での開幕となるが、送りバントが成功しても、どうしても観客のリアクションは薄い。成功して当たり前、というような雰囲気も漂う。これで走者が進み、得点につながるのだが、美しい弧を描いて一発で得点になるホームランに比べれば、明らかに分が悪い存在といえるだろう。ホームランの打ち損ないというイメージもある犠牲フライのほうが、まだファンは沸く。一方で、わざわざ相手に1アウトを与えるだけと、送りバントをしない打線はファンを魅了する。どんな展開になるのかが見えず、期待がふくらむこともあるだろう。ただ、高校野球はもちろん、プロ野球からバントがなくなる気配はない。チームの方針にもよるが、犠打は間違いなく有効な戦術だ。

 もしかすると、日本の野球は、もっと犠打を誇ってもいいのかもしれない。日米の通算犠打では、1位、3位、4位に日本の選手が入っている。ちなみに、2位と5位はメジャーの古い選手で、通算犠打には犠飛も含まれていた時代の数字だ。一方、日本の3選手は、ここ半世紀の数字で、もちろん犠飛は含まれない。その頂点に輝くのは巨人、21世紀には中日でもプレーして、通算533犠打を積み上げた川相昌弘だ。ただ、最初は犠打に対する意識が高かったわけではなく、「最初からバントがうまかったのか訊かれますが、ヘタでしたよ。二軍で2度、連続して失敗して、1日ずっとバント練習をさせられたこともある」という。

 3球団がドラフト4位で競合するという、現在から振り返れば、どことなく“らしい”滑り出しで、あこがれの巨人に1983年に入団。岡山南高では投手だったが、内野手としての入団だった。「顔がジジくさい」と、愛称は“ジイ”に。2年目の84年に早くも一軍へ呼ばれたが、守備固めが中心だった。ある日、川相は助っ人のレジー・スミスから「オジー・スミスのような選手になれ」と言われる。名前を聞いたことがある程度だったが、調べてみると「守備だけでゼニが取れる」と言われるカージナルスの名遊撃手であることが分かり、愛称にも似ていることから親近感を覚えたという。守備の上達は早かったが、打撃では紆余曲折を続けた。

「心の中では『コノヤロー!』」


バントの構えをする川相


 85年にはスイッチヒッターに挑戦、左打席で犠打も決めたが、すぐ右打ちに絞る。ウエートでパワーアップを目指したが、結果が出ない。そこから川相は「目を向けたのが守備と、バントを軸としたチーム打撃。その分野で一番になろうと心に決め、気持ちの中でバッティングは捨てました。バッティング練習の7、8割をバントや右打ちに充てました」という。

 89年には遊撃のレギュラーとなり、規定打席には届かなかったが、ゴールデン・グラブに。前年は6犠打だったが、この89年は32犠打と急増した。翌90年には58犠打のプロ野球新記録、その翌91年には66犠打で、さらに更新。だが、川相は「バントばかりしていてつまらない」などと揶揄されるようになる。

「心の中では『コノヤロー!』です」と川相は振り返っているが、黙々と自らの役割に徹し続けた。98年には平野謙西武ほか)の通算452犠打を超え、プロ野球の頂点に。これで、「そういう風潮が変わってきた。ファンの方ももちろん、マスコミの皆さんにもポジティブに見てもらえるようになっていきました」と川相は語る。それまで、打率3割を突破したのは94年の1度だけで、しかも本塁打はゼロだったが、97年までリーグ最多犠打は7度、ゴールデン・グラブは6度。89年から97年まで巨人も4度のリーグ優勝に輝いている。「つまらない」と言われた男は、チームに不可欠な戦力だった。

 セーフティーバントが得意だったのは東映から巨人にかけてプロ野球記録の通算3085安打を放った張本勲だが、僅差で首位打者を争った70年などの一部を除いて、バントを封印したのは周囲から「卑怯」と言われたからだという。“小技”とも表現されるバントだが、それが犠打であれ、苦しい中で“小さなこと”を積み重ねたことが、世界の頂点につながっている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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