歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 激動の80年オフ
1980年のオフは、プロ野球の歴史において、もっとも大きな分岐点のひとつだろう。ペナントレースは、セ・リーグでは
広島が、パ・リーグでは近鉄が、ともに連覇を達成し、日本シリーズでは広島が2年連続で日本一と、この点では波乱の少ないシーズンだったのだが、両リーグの優勝が決まるや否や、歴史は一気に動き出した。
まず、3位に終わった巨人の
長嶋茂雄監督が退任を発表する。会見で長嶋は淡々と語り、解任であることは否定したが、その言葉の行間からは無念さが伝わってきた。近鉄を連覇に導いた
西本幸雄監督は「これだけの功労者を汚れたまま引っ込ませるのは、かわいそうの一言」と語ったが、多くのファンが似た気持ちだっただろう。読売新聞の不買運動が巻き起こるなど、社会現象にも発展。選手として、そして監督として、昭和のプロ野球を絶対的な人気で引っ張ってきた長嶋ならではのことでもあるが、そんな存在がプロ野球からいなくなるということは、当時のファンにとっては、それほど大きなことだったのだ。
衝撃は続いた。現役時代の長嶋と“ON砲”を形成し、長嶋が引退してからも変わらず主軸を担ってきた王貞治が、現役引退を発表する。その6年前、長嶋が引退したときには球史に残る引退セレモニーでファンに見送られた。だが、対照的ともいえるほど、王は静かなフィナーレ。シーズンでも30本塁打を放ち、通算868本塁打とするなど、確かに全盛期ほどの勢いはないが、まだまだ主軸として通用することは間違いない数字だ。
だが、王は会見で、「引退は8月中旬くらいから決めていました。口はばったい言い方になるかもしれませんが、王貞治のバッティングができなくなったからです」と語った。シーズン終盤には長嶋に引退を告げて、何度も強く慰留されていたという。それでも決意は変わらず、発表のタイミングを見計らっているうちに、長嶋監督が“解任”。新たに就任した
藤田元司監督からも「選手と助監督の兼任」を依頼されて、迷いもあったが、最後は“王貞治”のまま22年の現役生活に幕を下ろした。
巨人からは13年目の
高田繁も引退。同じセ・リーグでは
中日ひと筋21年の
高木守道も「王さんがいなくなってしまったら僕がリーグ最年長の選手になってしまう。それもどうかと思って」と、余力を残しながらグラウンドを去っていった。
そして、パ・リーグでも1人の名選手がラストシーンを迎えることになる。それが、プロ27年目の野村克也だった。
45歳の“実験台”
この80年、45歳の野村は王や高田、高木とは大きく異なるシーズンを過ごしていた。司令塔、四番打者、そして兼任監督を務めた南海のユニフォームを着ていないというだけではない。“生涯一捕手”を掲げ、
ロッテを経て、たどり着いたのは埼玉へ移転した西武だった。かつての三冠王の面影もない。ただ、これも野村にとっては想定の範囲にあっただろう。ボロボロになるまでやりたい、それが野村の美学だった。
45歳という自らの体を“実験台”に、まったく別次元の戦いを続け、8月1日には前人未到の通算3000試合出場に到達する。「ONがひまわりなら、俺は人知れず咲く月見草や」と語った野村。ただ、ライバル視していたのは長嶋ではなく、王だったという。シーズンでも通算でも本塁打では次々と王に抜かれたが、野村の通算3000試合は、その王にも手が届かなかった金字塔だった。
根本陸夫監督に与えられた役割も異色だった。それは“リリーフ捕手”。言い換えれば捕手のクローザーだ。試合の終盤、絶対に負けられない場面で登場して、マスクをかぶる。「捕手の仕事は初回から相手の出方や打者の好不調を的確に判断してゲームを作っていく」と考えてきた野村にとっては、まるで違う、別の仕事だったのかもしれない。ただ、選手の多くがベテランだったが、投手の主力は若手だった当時の西武にとっては、その存在は間違いなく財産だったはずだ。
その秋のドラフトで、巨人は
原辰徳を1位で指名して、獲得に成功する。時代の激動は、さらに続いていった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM