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プロ野球20世紀・不屈の物語

スイッチヒッターのパイオニアとして成功も……右打席に専念した柴田勲/プロ野球20世紀・不屈の物語【1968年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

まずは投手からスイッチに



 スイッチヒッターに挑戦した選手のほとんどに、不屈の物語は存在する。汗と涙、努力と根性の結晶だが、それで成功すれば上々だ。足を生かすためにスイッチヒッターとなったものの、大成できなかった選手も少なくないだろう。一方、成功を収めたスイッチヒッターで、どちらかの打席に専念するようになるケースは珍しい。そんな選手のパイオニアは、スイッチヒッターとしてもパイオニアといわれる巨人の柴田勲だった。

 チームこそ巨人ひと筋だったが、その現役生活は転向の繰り返しでもあった。もともと、甲子園で法政二高を夏春連覇に導いたエースで、入団も投手として。1年目の1962年には開幕2戦目に先発のマウンドを託されるなど期待を受けた。だが、投げ込みで背中を痛めると、早々に外野手へと転向。「こだわりとかの以前に、ピッチャーで入ってる。バッターに転向するなんて、ゆめゆめ思わなかったよ。でも、考えれば、勧誘に来ているときから、おかしなところがあった。オヤジに『お父さん、心配しないでください。柴田くんは投手がダメでも打者で大成するから』って。おかしいよね。投手がやりたくて、投手で結果を出した人を誘いに来たはずなのに最初から転向の話だからさ(笑)」(柴田)。

 暗い気持ちに沈んだというが、これが成功につながる。「転向のとき、すぐに『スイッチに挑戦してみろ』って。びっくり仰天だよね。『どうやって左で打てばいいんですか』って聞いたら『左でも右でも、うまく打ちゃいいんだから同じさ』と、それだけ(笑)」。それでも、2年目の63年にはレギュラーとなって43盗塁。まだまだ左打席で苦労があったというが、翌64年には50盗塁と、韋駄天ぶりを存分に発揮するようになる。

 トレードマークの赤い手袋を着けるようになったのはV9の2年目、66年だ。46盗塁で初の盗塁王に輝くと、翌67年には自己最多70盗塁で2年連続の戴冠。V9巨人は王貞治長嶋茂雄の“ON砲”が象徴的な存在だが、その打線のリードオフマンにいる柴田も、敵チームの投手にとっては厄介な存在だった。ただ、「サインも『走れ』じゃなくて『待て』が多かった。特に王さんが三番で打席に入ったときは、一塁にいても盗塁で二塁に行くと敬遠されちゃうし、一、二塁間も狭くなるでしょ。70盗塁の年も、ふつうにやらせてもらえれば80盗塁は簡単にいったと思うよ」(柴田)という。足の絶頂期。だが、その翌68年、そんな柴田は次なる“転向”を求められる。

野球人生の失敗?


柴田の売りと言えば、その“快足”だったが……


 柴田の回顧は雄弁だ。「『右(打ち)に転向してくれないか、と言われたときは、ええっ、と思った。なんで川上(川上哲治)監督は前の年に70も盗塁しているバッターに盗塁を捨てさせて、長打を求めるのかなって。打率.287と、やっと格好になってきた時期だしね。たぶん高田(高田繁)が入ってきて、高田が一番、土井(土井正三)が二番で組めると思ったんじゃないかな。そうすると五番が空くじゃない、“ON”に続くね。上に言われちゃ仕方ないと始めたけど、これが野球人生の失敗だった。その年は、まあまあ(自己最多の26本塁打)だったけど、このあと、2年間まったくダメ。あの3年間がなければヒットも(通算)2200本くらい打って、盗塁も増えたと思うね」(柴田)。

 ショッキングな(?)ことは続いたという。「悩んだ末、川上監督に『スイッチに戻していいですか?』って聞いたら、『どっちでもいいよ』って(笑)。どっちでもいいなら、なんで転向(右打席に専念)させたんだろうね。そこから、また打率も上がった」(柴田)。

 言うまでもないことかもしれないが、9年連続でリーグを制覇し、日本シリーズでも9年連続で勝者となったのは、この巨人のV9のみ。空前絶後の黄金時代は、チームの勝利が最優先であり、そのためには個人の自己犠牲的な姿勢が無数にあったことが見て取れる。また、そんな時代でもあった。柴田は、こうも語っている。

「選手でも、やめてからも、巨人のユニフォームしか着ていない。いまは、そういう人も少ないでしょ」

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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