一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 二軍では明るく
今回は『1971年10月4日号』。定価は90円。
8月15日、代打三振の後、煙のように消えたのが、ロッテの
榎本喜八。
プロ17年目、過去2度の首位打者に輝いた安打製造機に何が起こったのか……。
この年、打撃不振もあって
江藤慎一に一塁の定位置を奪われ、代打中心の起用となっていた榎本。二軍落ちの表向きの理由は右もも肉離れだったが、首脳陣の誰に聞いても歯切れが悪い。
選手のケガを知り尽くしている知野トレーナーでさえ、「本人が痛いと言っているからねえ」と言うだけだった。
江藤、
アルトマンも満身創痍で戦い続けていた。左打者不足もあり、普通なら
大沢啓二監督も一軍に置きたいはず。しかも肉離れがよくなっても上がってくる気配も見せなかった。
背景に大沢啓二監督との確執、というか、榎本の奇行を大沢監督が許せなかったのではないか、と言われた。
本来はおとなしい選手で喜怒哀楽をあまり表に出さないのだが、この年は三振した際、バットを逆さに持つと思い切り地面にたたきつけて折ってみたり、コーラの瓶を割ってみたり。また、9回裏二死、自分の打席で走者が走ってアウトとなり、ゲームセットとなった後には、近くで監督が取材を受けているにも関わらず、医務室のドアを思い切り、殴った。
親しい記者は、
「根がマジメなだけに不平不満が内向するのだろう」
と話していたが、大沢監督にしてみたら「文句があるなら言えばいいだろう」だったようだ。
二軍落ちしてからの榎本は、ランニングなどはするが、試合にも出ず、バッティング練習もしなかった。
ただ、ふてくされているわけではなく、二軍戦ではコーチスボックスに立ち、「もっと元気を出せ」など若手選手を鼓舞。若手選手の中には「榎本さんは、てっきりコーチになったと思っていた」という者もいたくらいだ。
榎本は言う。
「いまはこれといって目標がないんだよな。足はよくなっているけど、一軍に行っても出る幕がないし、来年に備えているんだ。来年どうなっているかは分からないけど、どこか使ってくれるところがあるだろう」
いわゆる移籍覚悟の言葉。有力なのは
広島か近鉄と伝えられていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM