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プロ野球20世紀・不屈の物語

南海へテスト入団。初本塁打でヘッドスライディングした男/プロ野球20世紀・不屈の物語【1949〜53年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

二軍もなかった時代



 南海といえば、昭和の最後に低迷を重ねた印象を強く残すファンも少なくないだろう。勝利すら遠く、もちろん優勝とは無縁。緑色のユニフォームも、どこかくすんで見えたものだ。ただ、そんな南海にも、現在のソフトバンクに勝るとも劣らない黄金時代があった。戦争によって休止に追い込まれたプロ野球が再開したのは1946年。時を同じくして、南海の黄金時代は幕を開けた。電車の車輪をイメージして、チーム名をグレートリングとして再出発すると、いきなり初優勝。翌47年6月には南海ホークスとなり、新たな歴史を刻み始めることになる。

 だが、世の中の混乱は収まったわけではない。29歳で兼任監督を任された鶴岡(山本)一人は、選手たちの食糧のために自ら鍬を握って芋畑を耕したり、警察と連携して横行する賭け屋と対決したりもした。のちに戦力となる若者たちにも混乱は襲い掛かる。学制改革が始まり、宙ぶらりんのような状態になる野球少年もいた。「当時は中学5年だったのが、6・3・3制になって学校名が(京都一工から洛陽高に)変わったんです。僕らは卒業してもいいし、もう1年やってもいいと言われた」と振り返るのが、野球少年というよりはバスケットボール少年だったという岡本伊三美。低迷に沈む南海を知るファンにとっては、同じ時期に近鉄を監督として率いていた姿の印象もあるだろう。

「プロ野球っていうか、職業野球ですか、あまり知らんかったんですよ。野球でカネをもらえるなんて思いもしなかった」と言うが、「南海にいた中谷信夫さんがOBだったんで、部長に言われて」南海のテストを受けると、合格。月給3000円と言われて、「なんぼなんでも、って言ったら、鶴岡さんが『そのうち上手になったら、もっともらえるで』って。『じゃあ、何年したらええんですか』って聞き返しましたけど、でも怒りもせず『2年半くらいかな。そのかわり、人の倍やらんといかんぞ』と言ってくれた」と、岡本は懐かしそうに振り返る。

 1リーグ制が幕を下ろそうとしていた49年のことだ。“親分”鶴岡監督に対して、ひるむことなく“契約交渉”したテスト生というのも、この時代ならではなのかもしれない。さらに、テスト生は二軍からスタート、ということもなかった。そもそも二軍がなかったのだ。「昭和24年の9月に二軍ができて、鶴岡監督に『良かったな』と言われた覚えがある。それまでは一軍についていって、荷物持ちとボール拾いです」と岡本。背番号20が与えられたが、二軍のみの背番号だった。

「おい、野球はおもろいやろ」


 ポジションは遊撃手。だが、当時の南海は“100万ドルの内野陣”と呼ばれた鉄壁の内野陣が自慢で、球界きっての遊撃手がいた。「名人木塚の後に木塚なし」と言われた木塚忠助だ。フィールディングも強肩も別次元。運動神経は抜群とはいえ、どちらかといえばバスケットボールに熱心だったテスト生が勝てる相手ではなかった。そこで目を付けたのが二塁。レギュラーは監督を兼ねる“親分”だ。

「二軍監督の岡村(俊昭)さんが、『トシだから、もうちょっと我慢すればええ』って(笑)。確かに(昭和)26年になってからは鶴岡さんが7回くらいまで出て、その後で守りだけですが一軍で出るようになりましたね」と岡本。2リーグ制2年目の1951年のことだが、その51年にプロ初本塁打も放った。「誰かのバットを借りて(代打で)打席に行った。給料が安くて自分のバットなんか買えんから。それで右中間にホームラン。ライナー性だったし、入るなんて思わんから必死に走って……」三塁にヘッドスライディング。「ずいぶん笑われました。お前アホか、と言われたのは覚えています」と岡本は振り返るが、このとき三塁コーチをしていた鶴岡監督は、「おい、野球はおもろいやろ」とニヤリと笑ったという。

 この51年、初めてパ・リーグを制した南海は、以降リーグ3連覇。岡本は翌52年にレギュラーとなり、鶴岡も現役を引退して、その翌53年からは監督に専念する。岡本が打率.318で首位打者、MVPに輝いたのも、その53年のことだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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