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プロ野球20世紀・不屈の物語

「平和の台場」だからこそ? 博多っ子が激怒した“平和台事件”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1949〜52年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

福岡は朝から雨だった


グラウンドでファンに囲まれる毎日・湯浅監督


 この時期、首都圏から福岡へ行くと、体中にまとわりつく湿度と雨の強さ、晴れた日なら日差しの強さ、そして日の長さに驚かされる。そして、もつ鍋屋に急行して唐辛子を大量にかけて汗をダラダラかきながら生ビールを浴びるように飲みたい衝動に駆られてしまう。いまは記念碑と、近隣のビジネスホテルなどに名前が残るくらいだが、そんな福岡に威容を構えていたのが平和台球場だった。

 完成したのは1949年のこと。終戦から4年ほど、「ここを平和の台場に」という願いから名づけられたものだ。働き盛りの世代には、福岡へ移転したばかりのダイエー(現在のソフトバンク)が福岡ドームへ移転するまでの4年間、本拠地としていた記憶も新しいことだろう。古くは西鉄(現在の西武)“野武士軍団”の、まさに“城”。江戸時代に福岡藩の藩庁があった福岡城の跡地でもあり、古くは城壁の跡からはグラウンドを望むことが可能で、球場から「気をつけてご観戦ください」とアナウンスされるなど公認(?)の“タダ見”特等席だった。ただ、竣工した当時は九州に拠点を置くチームはなく、折しも2リーグ制への動きが加速していた時期でもあり、巨人阪神が球場開きの試合を行っている。

 のちに本拠地とした西鉄もダイエーもパ・リーグの球団だが、翌50年3月10日にセ・リーグの開幕戦、つまり、記念すべきセ・リーグ初の開幕戦2試合が行われたのも平和台球場だった。対戦したのは巨人と松竹(のち大洋と合併)、そして1年で西鉄と合併した西日本と広島。この4球団のうち、福岡が拠点だったのは西日本のみで、現在のようなフランチャイズ制が定着していない時代だからこその出来事ともいえる。同時に、古くから野球熱が高く、それまでプロ野球のチームがなかった九州の地に、プロ野球を根づかせ、盛り上げていこうという関係者の思いも感じられる。

 51年にセ・リーグの西日本とパ・リーグの西鉄が合併して西鉄ライオンズに。平和台球場が正式に西鉄の本拠地となったのは52年のことだ。その7月16日の試合で、事件が起こる。西鉄に対するは毎日(現在のロッテ)。試合開始は15時の予定だったが、この日の福岡は朝から雨が降り、それでも西鉄の勝利を願う地元のファンが平和台に詰めかけていた。当時の平和台球場には雨宿りをする場所も照明設備もない。ファンの願いに応えたいという思いもあったのだろう。試合開始の時刻は繰り下げされていく。

立ちはだかった西鉄ナイン


 16時55分に試合開始。この日、福岡の日没は19時29分で、これだけでも東日本での生活に慣れた人には驚くべき時刻なのだが、当時の平均的な試合時間を考えれば、ギリギリで試合成立の可能性がある時刻だった。だが、雨は容赦なく球場を襲う。いきなり初回に15分の中断、3回を終えて1時間ほど中断し、このとき西鉄は4点リード。5回を終わらせて試合を成立させようとする審判団が渋る毎日を説得して試合を再開させたのが18時46分だ。場内には「日没コールドになるかもしれませんからご了承ください」とのアナウンスもあった。

 問題は西鉄が5点差にリードを広げた4回裏に起きる。雨天コールドを狙う毎日が露骨な遅延行為。ようやくチェンジになった時点で毎日の湯浅禎夫総監督が続行不能を主張したことで、観客がグラウンドへ次々に乱入、審判や毎日ナインに襲い掛かった。

 これに立ちはだかったのが西鉄ナインだった。右腕の野口正明は負傷。主砲の大下弘が「どうしても殴るなら僕を殴ってください」と懇願。これで一瞬、暴れていた観客も静かになった。大下らは毎日ナインを外野側から逃がすことに成功したが、警官隊だけでなく福岡にいた米軍まで出動。試合は日没で中止を余儀なくされたが、混乱は深夜まで続いた。

「平和の台場」で起きた大騒動は皮肉にも思える。ただ、逆説的になるが、平和だからこそ野球で事件が起きたのかもしれない。まだまだ、そんな時代だった。ちなみに、この騒動で負傷した野口は最終的に23勝で最多勝に輝き、西鉄で最初のタイトルホルダーになっている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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