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プロ野球回顧録

ライオンズに“黄金期”をもたらした3人の名将

 

たぎるような報復の思い


西鉄・三原脩監督


 今年はライオンズという名称が名付けられてから70周年となるが、ライオンズには2つの“黄金期”があった。西鉄時代の1956年からの3連覇、そして西武時代、80年代前半から10年以上にも及んだ圧倒的な強さを誇った時だ。盤石を誇った王者には3人の名将の存在があった。

 巨人監督・三原脩は、いずれ巨人を出ることになるのは本人も分かっていた。しかし、それが巨人を戦後初Vに導いた年(1949年)になるとは想定外だった。南海のエース・別所昭(のち毅彦)の“強奪”は、想像以上に巨人の生え抜き組を怒らせたのである。二塁手の千葉茂が「よりによって(48年の)優勝チームのエースを引っ張ってくるとは、どういうことですか! ワシらがそれほど信用できんのですか!」と噛みつくと、三原は平然と「別所は1勝もせんでいい。南海からいなくなるだけでいいんだ」とうそぶいたのは、あまりにも有名な話だが、ただでさえ三原のドライなやり方に反発してきたナインは、これで爆発。優勝したにもかかわらず、いわゆる「連判状事件」などがあり、三原は総スカン状態になり、球団も「面倒だ」とばかり、50年は三原を総監督に祭り上げ、シベリア抑留から帰ってきた水原茂を監督に据えた。

 三原もさすがに参った。ウツウツと楽しまない日を送っていた三原にその年の秋、西鉄クリッパースに巨人から移っていた投手の川崎徳次から「ウチのチームに来てください。こちらでひと暴れしてください」という連絡が入った。川崎によれば若い力のある選手を、金をナンボでも使って集めたいという。三原は小うるさい、プライドばかり高い巨人の選手にはウンザリしていた。決断は早かった。三原は自伝『風雲の軌跡』(ベースボール・マガジン社)の中で、こう書いている。「未練はなかった。たぎるような報復の思いを秘めて、私は関門海峡を渡った」。そう、「たぎるような報復の思い」、これがすべてだった。ひとことで言えば、この思いが三原を西鉄での成功に導いたのである。

「巨人には勝たなくてもいい」


 当初は寄せ集め集団に苦労したが、52年中西太、53年豊田泰光、54年仰木彬と野球優秀児を入団させ、54年には早くも初優勝。彼らが三原に反発することなどあり得ない。三原の計画どおりにその能力を伸ばしていった。そして、56年、あの稲尾和久が入団。この年から、すべて巨人相手に日本シリーズ3連覇。忘れてはならないのは、若手の多いチームのまとめ役として大下弘を52年途中に東急から獲得したことだ。

 中西も豊田も「あんなチームが出来たのは偶然。もう2度とあり得ない」と口をそろえるが、あり得ないチームを作るのが、三原だった。「三原さんから野球の技術を教わったことはない」(豊田)という指揮官だったが、選手から力を引き出す才能は別格だった。56年の日本シリーズ第1戦前のミーティングで三原は「相手は日本一の巨人。勝たなくてもいい。よ〜く巨人を見ておきなさい」と驚くようなことを言った。豊田は「そんなバカな、と思ったけど、三原さんを絶対男にするんだ! というそれまでの気負いがスーッと消えた」と言う。この「勝たなくてもいい」は、実は「たぎるような報復の思い」の裏返しだった。三原こそ一番巨人に勝ちたかったのだ。しかし、プレーするのは自分ではなく選手だ。そのイレ込む選手には「勝たなくていい」が、最も効果的な激励だったのだ。

 ここを押さえる指導者というのは、なかなかいない。のち、83年にやはり巨人と日本シリーズを戦った広岡達朗監督は、3勝3敗となったあと「もう、どっちが勝ってもいいんじゃない。藤田(元司巨人監督)に勝たせてもいいよ」と驚くべきことを言ったが、この発言は三原の「勝たなくていい」と遠く響き合う。時代を作る指揮官には共通の“言語能力”があるようだ。

根本陸夫の手腕


西武・広岡達朗監督


 三原が去ってから(59年退団)、西鉄は力も魅力も失い、クラウンライターとなっていた78年に、ついに西武に球団譲渡となるのだが、引き続き監督となった根本陸夫は優勝への布石として、田淵幸一山崎裕之のスター選手を強引に獲得した。自由契約となった野村克也も取った。根本の広島監督時代に教えを受けた衣笠祥雄は言う。「根本さんは、どこでもお手本となる選手を引っ張ってくるんです。われわれのときは山内一弘さん。この人の野球人としての素晴らしい姿を選手に見せる。結局、これが選手育成に一番いいんです」。根本は西武でも同じことをやった。これは大成功で、4年後の82年に、広岡監督のもとでの初優勝→日本一へとつながる。

 広岡監督は三原とは違い、技術指導に関しては右に出る人はいない。自らプレーしてみせて、選手を納得させる。で、石毛宏典のような主力に対しても「お前、それでよくショートをやれたな」とバッサリ斬り捨てる。こういうやり方は選手を委縮させてしまうものだが、それは選手の質による。西武は「広岡方式」に耐える選手がそろっていた(これは根本監督兼GMの選手集めが正しかったことを示す)。西武ナインは「ナニクソ! 監督、見とれ!」となって、大ベテランの田淵でも必死になってゲームにのめり込んだ。

西武・森祇晶監督


 82、83、85年と広岡西武が3度の優勝を達成したところで、森祇晶監督にバトンタッチ。これも、すでに管理部長となっていた根本のセレクトだった。初めは「森ではどうだろう?」と危ぶまれたのだが、V9巨人の要だった森は絶対に負けない野球をやって、勝ち続けた。「もっと名前と実力のある外国人が来てくれよ」と、いつも得意の(?)ボヤキでチーム力の不足を嘆いていたが(実際、森の監督時代の9年で、力のある外国人は打者でデストラーデ、投手で郭泰源のみだった)、試合運びのうまさと、投手起用の妙で8回の優勝。就任時、恩師の川上哲治元巨人監督に「7年で森の野球を完成せよ」と送り出されたのだが、9年の長期政権となった。

写真=BBM
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