歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 わずか6人の巨人軍
プロ野球の歴史が始まったのは1936年だが、巨人の歴史は、それよりも古い。その前身、大日本東京野球倶楽部が結成されたのが34年12月26日。この2020年で85年目を迎える球団だ。これは現在の12球団はもちろん、時代に消えていった多くの球団を含めても、もっとも長い。そして、そこには数えきれないほどの栄光がある。
ただ、常に順風満帆だったわけではない。巨人のピンチとしてファンが印象に残すのは、V9が途切れ、
長嶋茂雄監督が就任した途端に初の最下位へと転がり落ちたときだろうか。だが、常に最下位のチームというのは存在するわけで、それまで巨人が最下位を経験していなかったということが、むしろ異様なこと。たとえ最下位であろうと、ペナントレースを最初から最後まで駆け抜けたのだから、ピンチとしては幸せな部類に入るだろう。さまざまな事情で存続できなかった球団もあり、それを巨人は免れてきているのだ。
そんな巨人にも、ペナントレースを迎えられない可能性があったシーズンがあった。戦局が悪化の一途をたどった1944年のことだ。もちろん、これは巨人だけのピンチではないのだが、43年には35人の選手が在籍していた巨人は、オフに16人が兵役へ。さらに44年のシーズンを前に、「もはや野球どころではない」と、選手たちが次々に辞表を出した。残ったのは、6人。言うまでもないことだが、野球の試合を成立させるためには、少なくとも1チームに9人の選手が必要だ。たった6人では、最下位にすらなることができない。そもそも、試合ができないのだから、ペナントレースに参加することもできない。巨人の歴史で、これ以上のピンチはないだろう。
当時の巨人には、「他チームの選手は獲らない」という不文律があった。これには最初に誕生した球団としての矜持もあっただろう。だが、そんなことを言ってはいられない事態だ。巨人は不文律を破り、迫る開幕に向けて選手の獲得に奔走する。そして、この連載でも最初の完全試合を達成したことで紹介した
藤本英雄を兼任監督に、なんとか16人の選手がそろった。うち10人が移籍か新人だったことになる。その中の1人に、黒沢俊夫がいた。のちに巨人の結成に参加した伝説的エースの
沢村栄治が着けた背番号14とともに、その背番号4がプロ野球で初めて永久欠番となったことでも知られる男だ。
ただ、迎えた44年は背番号が廃止され、黒沢の巨人1年目は背番号なし。数字はなかったが、巨人の存続を背負って、黒沢はチームを引っ張っていく。
永遠の背番号4
黒沢は金鯱で36年からプレー。金鯱は大洋となり、西鉄となって解散。いずれも戦後の大洋、西鉄とは別の系統となるが、黒沢は2度の応召を挟み、チームひと筋の男だった。温厚な性格で、巨人でも先輩風を吹かすこともなく、若手からの信頼も厚かったという。1年目は全試合に出場し、一番打者としてリーグ2位の打率.348。本盗は歴代2位となる通算10個を残したが、この44年には1試合で2度も本盗を成功させたこともあった。
ロイド眼鏡を上げたり下げたりしながら左打席に入り、独特のクラウチングで構えたバットは変色していた。用具も貴重だった時代でもあるが、古いバットを大事に使っていたのだ。打球は鋭く、巧みに全方向へと打ち分けた。戦後も巨人でプロ野球に復帰、新たに背番号4を着けて、やはり全試合に出場してリーグ8位の打率.308。だが、巨人はグレートリング(南海。現在の
ソフトバンク)に1ゲーム差で戦後の初優勝を逃した。
雪辱を期した47年だったが、黒沢は6月に「痔が悪いようだ」と病院へ。腸チフスと診断され、そのまま入院。だが、病状は急激に悪化、1週間後の23日に死去した。巨人の選手が総出で見舞った、すぐ後のことだったともいう。遺言は、「俺が死んだらユニフォームを着せて葬ってくれ」。そして背番号4も永遠となった。永久欠番を巨人にはたらきかけたチームメートの
千葉茂は「ひとえに黒沢の人柄。誰からも慕われた男で、それを球団も分かっていた」と振り返る。
文=犬企画マンホール 写真=BBM